[短篇集]きみが忘れたむらさきへ。



初めてあの人の唄を聴いた時、頭の中が真っ白になって、身体がふわりと軽くなった。




ほうっと息を零し、唇を薄く開いたまま、溢れる歓声と拍手に、私は埋もれていた。

まるで、どこまでも澄んだ湖面に雨水が染みて、ほんの少しだけ淀むような、そんな声に惹かれた。


彼は声帯を手術して、リハビリ中らしい。

舞台に立っていた頃は一躍有名な歌手として業界に名前を轟かせた、というのは風の噂で、彼がリハビリと称して全国、それも田舎を重点的に巡っているというから、たまたま顔を覗かせただけ。

それだけ、だったのに。


古ぼけた公民館の体育館。

軋むステージ。

錆びた鉄の壁は音を反響するどころか、不協和音に変えて容赦なく弾くのに。


彼の唄声は、湖面を叩く雨の銃。

決して穏やかではないのに、激しくもなく、胸に染み入っては蒸発をする。


ステージといっても、機材は何もなく彼はアカペラで唄っていたから、ペコリと頭を下げると、激流の如く巻き上がる歓声から逃げるように、舞台袖に引っ込む。


あちこちから聞こえる賞賛の声は、決してお世辞ではないけれど、普段テレビなんかの液晶に向けているものを、膨れ上がらせて、ただ彼に発しているように思える。


この中で、唯一私だけが“彼”の唄を聴いたのではないかと、訝しむ。

場を取り仕切る町会長の目に触れないように、そっと体育館を抜け出して、足音を忍ばせて裏へ回る。


町会長。家では寛大な父親の顔をするその人には、何故だか私の考えが全て見透かされてしまう。

長く一緒にいるから、そうなるのも自然なのだけれど、町会長は一応、私の義父だ。


全てを見透かされてしまうと、気分も居心地も悪い。


体育倉庫の裏手から、窓枠を引っ掴んで、思い切り腕に力を込める。

ガコン、と派手な音がした。壁際に何か立て掛けていたのだろう。


あ、と思った時には、驚いたようにこちらを見て、顔にかけていたタオルを床に落とす彼と、目が合ってしまった。


「……あ、あの」


苔だらけの壁に足をツルツルと滑らせながら、窓枠にしがみつく。


ちょっと覗いてやるだけのつもりだったのに。

声をかける気なんて、微塵もなかったのに。


続く言葉も決めないまま、私は喉奥に声を詰まらせ、黙り込む。

彼は暫く放心していたけれど、やがて私がしがみつく窓枠に歩み寄って、首を傾げた。


「きみは…?」


色素の薄い髪は、ステージでは逆光を浴びてキラキラと艶めいて見えたけれど、目の前に来られると、その美しさにくらりと目眩がした。

日本人…じゃないんだ。たぶん、どこか外国の血が混じってる。ハーフではなさそうだから、クォーターとか、そんなの。


彼の問いには答えずに、息を止めていた私は、状況とこの体勢のせいで余裕を無くしていたのだと思う。


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