[短篇集]きみが忘れたむらさきへ。
「…あ、」
汗が手に滲んで、咄嗟に指先にぐっと力を込めたけれど耐え切れず、かたい地面に尻餅をついてしまう。
彼は白い、白い手を窓から私へ伸ばしていた。
私は、その手に気付いたけれど、掴まなかった。
「だ、大丈夫!? 待って、怪我をしてるかもしれない。人を呼んでくるから」
「あっ、平気…です。こんなの慣れっこだし、人を呼ばれると困るから。勝手に貴方に会ったのがバレたら、怒られる」
「…怒られる?どうして?」
慌てて人を呼びに行こうとする彼を止めると、ひどく不機嫌そうな顔で見下ろされた。
怒られるよ。そりゃあ。
どうしてって、理由はひとつしかない。
「私は知らなかったけど、貴方がとても有名な人で、本当ならこんな田舎で唄うような人じゃないから」
大体、彼が真正面から会っていい人なら、私は裏に回るなんて面倒な事はしない。
ステージ脇から入って、堂々と、お疲れ様でしたと言えた。
彼がリハビリ中だという事は知っているし、たぶん今の言い方には傷つく事くらいわかっていたけれど、事実は事実だ。
蝉の声がやけに耳につく。
彼の唄声を消してしまいそうな、そのけたたましい声を、聞いていたくなかった。
視線を乾いた土に落として、そっと泥だらけの両手を耳に当てる。
やっと、気が付いた。
彼の唄声が、あんな風に聞こえた理由。
たぶん、私の周りに溢れる音が
透明な湖面に泥水をひっくり返したような、濁音、不協和音に塗れているからだ。