[短篇集]きみが忘れたむらさきへ。
彼は何も言わなかった。
言っていたとしても、何も聞こえない。
耳を塞いだまま、自分の呼気だけを感じていると、私のものじゃない体温がそっと肩に触れた。
驚いて、両手を少しだけ離してしまう。
窓枠を軽く飛び越えた彼は磨き上げられた茶の革靴に泥を滲ませながら私の前にかがみ込む。
「さっきのは正論だね。…おかしいな。たとえここが砂漠の片隅だろうと僕は唄うよ、なんて言えたらいいんだけれど、君にはもっと別の言葉をかけてあげたい」
「え……なに…」
「デュエット、しませんか。突然言われても困るだろうけど、君は案外僕の声なんてすぐに忘れてしまいそうな感じがする」
うん。すごく困る。今、まさに困っている。
デュエットって、一緒に唄うってこと?
すごく正直な事を言うと、私は歌は好きだし、唄う事も好きだ。
ただそれを…誰かの前や誰かと一緒に、という事を出来ない、というかしたくないだけで。
なのに…その申し出が少し嬉しい。
「忘れないよ。貴方の声、好きだって思ったもん」
「…違うよね。忘れる前に、死んでしまいたいとか、思ってたりしない?」
射竦めるような視線から、逃れられない。
なに。表現者って、こんなに鋭いの?
私の何も知らないはずなのに、細部まで、深部まで見透かされている感覚。
義父のそれと同じだ。違うのは、不快ではないということ。
泣きたくなった。
知らない人の優しさにほんの少し触れただけで、泣きそうになるなんて、単純過ぎて、恥ずかしい。
優しさが足りなかったんだ。
温もりも足りなくて、自給自足が出来ないものにばかり、苦しめられてきた。
よく知りもしない彼にしがみついて、きっちりと整ったスーツの胸元に皺を寄せる。
彼は何も言わずに、けれど時々、大丈夫だよと囁いて、私の背中を摩っていた。