[短篇集]きみが忘れたむらさきへ。
しばらくして…時間にすると、10分くらいして、ようやく落ち着いた私は彼に手を引かれるがままに、公民館から遠ざかっていく。
この土地の地理は私の方が詳しいはずなのに、まるで住み慣れた場所を案内するように彼はあぜ道をズンズンと進んでいく。
泥が跳ねてズボンの裾が汚れても、靴に土がへばりついても、彼は何も気にしていない。
むしろ私の方が、そんな高級そうな靴やスーツを汚していいのかとヒヤヒヤしている。
「あの…どこに行くの?」
この先は森しかない。まさか森林浴をしたいなんて言い出すんじゃないだろうか。
生い茂る蔦に足をとられたら、貴方はきっとすっ転んでスーツを泥まみれにしてしまうよ。
「森林浴、したいんだ」
「やっぱり…」
「誰もいない静かな所で歌いたくて、こういう場所を好んで来るのだけど、人って集まるんだね。ありがたい事だから…文句は言えな」
「文句なんかいくらでも言えるよ」
つい、彼の話を遮った上に、嗾けるような強い口調になってしまう。
彼はちらりと私を振り向いて、きょとんとしている。
「ここには誰もいないよ。私も…人がいると何も言えないけど、たまに山の中で叫ぶから…やってみなよ」
「へえ……そっか。じゃあやってみよう。どのあたりがおすすめ?」
「と、思ったんだけど。もう日が暮れるし、危ないから山へは行かないよ」
「えぇ…なら僕の心の叫びはどこで発散するの」
「私にどうぞ。人の話を聞くの、得意だから」
山間からまだ辛うじて姿を見せている夕日も、もうじき完全に沈む。
そうすると瞬く間に夜がやってきて、何もかもを飲み込む。
連れて来なくていい不安を引き連れて、持って行って欲しい孤独を置き去りにするから、私は夜が嫌いだ。
今度は私が彼の手を引いて、すぐそこに流れる小川の畔に案内をする。
芝生の上に座ると、彼は私との距離を限界まで詰めて、綺麗な動作で座った。
脚が長いから、座り方まで綺麗に見える。
透けた色素の薄い髪が風に揺らめいて、私の髪に触れる。
肩が、微かに重なり合っていて、また目眩がした。