[短篇集]きみが忘れたむらさきへ。
経験がないからわからないけれど、私は今、たぶん彼に疑似恋愛のようなものをしているんだと思う。
面食いというわけではない、はず。
ただ彼の端正な容姿と、あの唄のせいで、こんなにも目眩が止まらない。
そんな私を気にも留めず、もしくは見ないフリをして、彼が水面を見遣りながら口を開く。
薄い唇。触れられたいと思うのは、いくらなんでもおかしいだろうか。
「ほんとうは、誰もいない所で唄いたいんだ」
「うん」
「誰の歓声も拍手もなくていい。ただ風の音と鳥の囀りと、たまに遮断機の叫びと、蝉の鳴き声なんかが聴こえたら、僕にはそれでいい」
「……ねえ、そこに、私はいてもいい?」
想像をするのは簡単なのに、きっと彼が望むその場所で、彼が彼の歌を唄うのは、難しい。
どれだけ広い世界を知ってきたんだろう。
年はきっと、高校生の私と変わらないか、少し年上くらいに見えるのに、見てきた世界と生きてきた場所がまるで違う。
でも、それは悲しい事ではなくて。
当たり前の事だと、割り切ってしまう事こそが、悲しい事なんだろう。
「そうだね。君が居ても、きっと唄える」
「じゃあ……どこか、貴方の声が微かに聴こえる木陰で」
「…死にたいって、言うんだろう?」
あ、わかるんだ。
心配の目じゃないね、同情を滲ませてもいないその瞳は、私の死体を映しても、揺ぎ無さそうだ。
「君の話を聞いてみたいんだけど、僕はあまり言葉が得意じゃないから、上手い慰めは出来ないんだ」
「別に、慰めて欲しくないよ。話も、面白くないし」
「うん。だから、唄ってくれないかな、デュオ。デュエット、しよう」
訊いておきながら、彼は私の返事を聞かずに、ハミングを奏で出す。
不思議だ。
人の声なのに、私の知らない楽器が、私の知らない音を奏でているみたい。