[短篇集]きみが忘れたむらさきへ。
ほうっと、彼の唄を聴き終えた時と同じ吐息を漏らす。刹那にそっと喉の奥に燻っていた声を押し出した。
ふわりと、夏の匂いを孕む風に乗せて、どこまでも届くような、そんなイメージをこめて。
初めは不協和音宛らの、合わない音でただ彼の声を追い掛けていたけれど、メトロノームのように、やがて重なり合う。
また少し、ズレが生まれては重なり合って。
彼は笑っていた。
私も笑っていた。
やがて、甲高い鳥の鳴き声が私と彼の間を劈いて、全ての音が止む。
高揚していたわけではないけれど心臓が暴れながら脈打って、息が荒れる。
彼は、息ひとつ乱さずに、頬を染める事もせずに、けれど確かに笑っていた。
「カルテット」
「え……?」
カルテットって…四重奏。この場合は、四重唱…だけれど。
でも、4人…?今、ここにいるのは、私と彼だけなのに。
首を傾げると、彼は私の髪をゆるりと撫でながら、落ち着いた口調で言う。
「ずっと、蝉の声がしていたよね」
「そりゃ…山だし、日中は止まないよ」
「うん。でも僕ときみと、蝉と、最後の鳥。デュオじゃない。カルテットだった」
呆気に取られた途端に、蝉の声が鮮やかに縁どられたように、聴こえた。
私の日常に蝉の声は当たり前にあって、だから、たいして気にしていなかったけれど…
蝉の声も、生まれたもので。
彼にとっては“歌”になるんだ。
素敵な人だなあ。
やっぱり、すごく、好きだ。
また理由もなく、隠していたい理由を胸に押し込んで、ほろりと頬に涙の筋を伝わせる。
彼は指先で私の目元を拭い、頬の肉の感触を確かめるように、顎のラインまでツッと滑らせた。
彼と、私達で奏でたカルテットは、止まらない。
ふわりと宙に投げて、落ちてくるそれを両手で受け止めるような時間は、あっという間に終わりを告げた。