[短篇集]きみが忘れたむらさきへ。
◇
夕暮れの防音室で、カルテットを奏でる。
私が吐き出す音も、耳に届く音も全てソプラノで、あの日のようなテノールはない。
そういえば、あの人の声はテノールといっても、カウンターテナーに近かった。
もう、思い出せない、彼の声。
ほんとうは、あの後、私は生きる事をやめるつもりだった。
理由は結局、教えてあげなかったし、訊かれなかったっけ。
死ぬその瞬間に思い出すような声、と言ったけれど、あれは私の願望。
死ぬその瞬間に、彼の唄が聴こえたら、きっとなんの躊躇いもなく息を止められる気がした。
わかっていたから、彼はデュエットをしようなんて言い出したのかもしれない。
それはもう― ―彼が死んだ今では、訊ねる事さえ出来ないけれど。
訃報が届いたわけじゃない。
悲報を観たわけじゃない。
彼が亡くなって数年が経ち、大学の友達と組んだ音楽グループで歌う内に、なんの前触れもなく、知った。
不慮の事故で亡くなったという彼の記事には、手術以前の活躍を記されているのみで、あの各地を巡っては好きに唄っていた事は、知る人ぞ知る彼の秘密になっていた。
切り取られた紙面を貼りつけたノートを見つけたのは、ほんとうに偶然で。
私達に目をかけてくれている先生が彼のファンでなければ、きっと一生知らないままだった。
悲しくはなかった。
彼に感じていた目眩はただの疑似的な一時の感情の表れで、数年後に地元を出た私はちゃんと大学の先輩と恋愛をして、今も順調だもの。
けれども、ふと思い出しては、彼と奏でた即興のハミングを口遊む。
すっかり癖になったそれを聴くと、メンバー全員が私を軸に音を紡ぐ。
古びた体育館での彼の唄は、思い出せないけれど。
あのカルテットだけは、忘れられない。
今も名前のないこの唄を
彼の人に捧ぐ。
夏に墜ちた、空のような唄よ。
彼の人へ、届け。
(さよなら、あの夏へ)
(20170915)