29歳、処女。
自分ではない人の、家族でもない人の体温に包まれる感覚。


こんなのは生まれて初めてだった。



喜多嶋さんの手が私の肩と背中に回っている。



「き………喜多嶋さん?」



声が震えてしまった。


驚きと動揺で、心臓がばくばくと高鳴る。

耳の中でどくどくと血が脈うつ音がうるさい。



「―――クソくだらねえ」



喜多嶋さんは小さく舌打ちをして、忌々しげに呟いた。



ああ、呆れられてしまった、と思うと、心臓が凍った。


馬鹿みたいに浮わついて行動していた私を、軽い女だと軽蔑されたのだと思った。


でも。



「……クソつまらねえ男だな、そいつは」



喜多嶋さんの低い声が私の耳朶をかすめた。


え、と目を丸くしていると、喜多嶋さんがゆっくりと顔を覗きこんできた。



「そんなアホ男のことは、忘れろ」



ベンチの脇にあった街灯から明かりが降ってくる。


青白い光に照らされた喜多嶋さんの真剣な顔。

その中にあるきれいな瞳に、呆然とした私の顔が映っていた。



「忘れちまえ、雛子」


「………」



声が出なくて、私はぱくぱくと口を開けた。


すると、喜多嶋さんの目がふいに細くなった。



「………ふっ」



かすかな笑い声が喜多嶋さんの口から洩れる。



「なにぱくぱくしてんだよ。金魚みてえ」



喜多嶋さんの指が私の唇をすうっと撫でた。


肩が震えた。

ぞくりと背中が粟立つのが分かった。



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