人魚花
泡沫の陰
**
打ち寄せる波の音が、宵闇の帷に包まれた浜辺に響く。
その静寂の隙間を縫うように、さく、さく、と、砂を踏みしめる音が鳴る。
不規則なそれを発するのは、粗末な身なりの旅人だった。
さく、さくり。足にまとわりつく砂を気にすることもせず、彼は、まるで糸で手繰り寄せられるように、ふらふらと歩いていた。
どうしてそうしているのかもわからない、どこに向かっていくのかもわからない。彼の目はぼんやりと波だけを映していて、このまま進めば水の中に入ってしまう。
けれど、彼の足は彼の意思とは無関係に、前へと進んでいくことをやめはしなかった。
──不意に風の中に潮の香りを感じて、彼はようやく、そこが海辺であることに気付いた。
月光さえも厚い雲間に隔てられた闇夜。けれど岬の先だけ、ぼんやりと光が浮かび上がっているように見えた。あそこに何かがある、と彼は感じる。海に浮かぶ、光の玉。けれど彼は、そのことを怖いとは思わなかった。
(……そうか、自分は、あの光に呼ばれているのか)
彼は悟る。同時に、彼の耳は、波と自分の足音の他に、かすかな別のものをとらえた。
──歌だ。
まるで囁くように、どこからともなく響いてくる旋律。
集中して耳を澄ますと、言葉も聞き取ることが出来た。
いかないで 告げたことばも
波と泡に呑み込まれて ひとり
わたしはまた ひとり
さびしいの さびしいから
ここへきて 隣にきて
一緒に夢を見ましょう?
弾むような可愛らしいメロディ。けれどその声はどこか悲しげで、そう思うほどにさらに、無意識に足が早まっていく。
< 1 / 54 >