人魚花
<彼女>が音を一つ奏でる度に、旅人の足音が少しずつ、ほんの少しずつ、こちらへと歩み寄ってくる。

 暗い底から 見上げていたの
 丸い月 明るい月を
 二つ浮かんだそれを見上げる
 私はいつも ここで一人

(良かった、上手く行きそう)

唄の音波は早速作用したようで、ふらふらとしながらも確実に大きくなっている気配に、<彼女>はそっと胸を撫で下ろした。

(間に合いそうだわ)

そう思うと同時、花弁─例えそれが花の形を成さない歪なものであっても─が、じわりと光を帯びた。その光は海の中から反射し、海上にも届くようになっている。

足音はと言うと、今や迷いなくこちらへ向かっていた。恐らく旅人からは、岬の方にぼんやりとした光の影が見えているのだろう。

(もう少し……もう少し)

そう頭の隅で冷静に考えながらも、唄を紡ぐことは決してやめない。

(……さっきの、違うわね)

不意に、<彼女>はそんなことを思った。

さっきの、とは、あの人魚に唄をせがまれたことを断る言い訳のことで。

(心に浮かんだことを紡ぐから、何も浮かんでいない状況では歌えない、なんて、そんなの嘘だわ)

やはり歌い続けたまま、<彼女>は自虐的な気分に襲われた。

(だって──今私がしていることは、唄を手段として利用しているだけだもの)

──こうして歌っていても、<彼女>の心には何も浮かんでいない。

むしろ、歌い続けるほどに、身体の末端から少しずつ、少しずつ温度が奪われていく心地すらしているのに。

無性に、今紡いでいる唄をやめたい衝動に駆られた。

──けれど、残る理性が、今止めたら生け贄を逃すことになると囁き、それを実行に移すことはない。

そのことが一層、<彼女>の自己嫌悪感を強めた。

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