人魚花
(……え?)

予想もしていなかったその存在に、<彼女>の思考が止まる。

(あの気配はロイレイ?)

けれど、にこにこと穏やかな笑みを浮かべている彼は、感じたあの気配とは余りにもかけ離れていて。

しかも当のロイレイは。

「もしかして邪魔しちゃった?ごめんね、でも気付かれるとは思わなかったなぁ」

邪気のない笑顔を浮かべ、<彼女>の混乱も知らずにそんなことを言う。

(ロイレイ、ではない、きっと。……でもなら、誰?)

疑問ばかりが浮かんで、けれど答えてくれる者などなく。

「……どういう、こと?」

一層混乱状態になりながら、<彼女>の口から洩れたのは、ロイレイへと言うよりは、この状況全体への疑問で。

けれど、その自分の言葉をきっかけに<彼女>は思い出した。

(……そうよ、おかしいわ。なんでこの人魚、ここにいるの?)

本来なら、いるはず、いや、来られるはずがないのだ。

明らかに私に会いに来た、とでも言いたげに、こんな風に当たり前の様ににこにこしているなんておかしい、あり得ない。

(どうやって来たの……?いや、その前に。さっきの気配はどこに……?)

一度に色々な驚きが舞い込んできすぎて、思考が追い付かない。

そんな私とは裏腹に、ロイレイはどこか緊張感のない様子で小首を傾げた。

「……ん?どうしたの?」

きょとんとした、と形容するのがまさに相応しい表情を見て、恐らく先ほどの殺気にも似た気配はロイレイではないと結論付ける。

だから、聞いてみることにした。

「……さっき、あなたの他に、誰かいなかった?」

<彼女>のその問いに、ロイレイはその問いに、やはり不思議そうな顔をする。

「え?……いや、一人で来たよ?」

(……気のせいだったということ……?)

混乱が極まって、声が、出せない。

呆然とする<彼女>の聴覚は、しかし冷静に、正気を取り戻して去っていく人間の足音をとらえる。

──ああ、今日はもう、生け贄が通ることはあるまい。

それはつまり、今日は海神に貢ぎ物を供えられないということ。

あの、全てを失った<彼女>が覚悟を決めた日から一日たりとも欠かしたことのないその行為を、初めて、為せないということ。

(ああ──……)

最早<彼女>には、胸に広がる感情が、海神を怒らせるかもしれないという絶望なのか、それとも罪深い行為から片時でも解放されたことへの浅ましい安堵なのか、それすら判断出来なかった。
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