人魚花

どんな言葉も効かない彼に少々諦めて、<彼女>はしばし空を見上げた。

そこにはロイレイの言葉の通り、妖しく赤く光る二つの月が浮かぶ。

「君はあの月、どう思う?」

<彼女>が月を見ていることに気が付いたのか、彼がそんな言葉をかけてくる。

どう答えるか、それとも答えないか──少しだけ迷ったあと、けれど彼女は口を開いていた。

「……少し不気味よね。不吉なことが起きそうというか。あんな風に二つならんでいると、特に」

欠けた月が二つ並んで赤く浮かんでいるのは、夜空に獣の目が並んでいるようで、少しだけ居心地が悪い。見られているというか、見透かされている心地がして。

それは、<彼女>の中の罪悪感がそう感じさせているのかもしれないけれど。

ロイレイはその言葉に少し驚いたように目を見開いて、それから頷いた。

「赤は、生き物が本能的に恐れる色だからね」

「……どういうこと?」

彼は、勿論だけど人魚として、<彼女>の知らないことを幾つも知っている。

つい聞き返してしまって、どうにも会話が進んでしまうのが悔しいし、狡い。

「海の中だと見たことないかもしれないけど、陸の世界には火っていうものがあってね」

彼の声は、耳に心地いい。

だから、話の腰を折って、拒むことが、出来なくて。

「その火は、とても熱くてね。色んなものをなくしたり、真っ黒な塵にしてしまうものなんだ」

「……そんなものが、あるの」

冷たい場所に長く住む彼女は、暖かさはわかっても、『熱い』という感覚はわからない。

「その真っ赤な火を、生き物は恐れるものなんだ。だから君が赤を不吉だと思ったのも、そういうことなのかもね」

陸上のことは、水面から顔を出して花を咲かせていた遠い昔の記憶しかない。その時も、遠い陸を眺めながら、小さく見える緑を見ていただけだったのだけれど。

──前もこうして、想像するしかない陸上のことを教えてもらったことがある。それをしてくれたのは人魚ではなく、<彼女>と一番近い、最後まで傍にいた花だったんだっけ。

ぼんやり眺めるだけの空がずっとずっと高いこと、その高い空を飛べる者がいること、水の中ではなく陸の上でとても綺麗な花があるということ、水の中から陸へとあがる生き物がいること──。

痛みを伴うはずのそんな昔の記憶との邂逅は、けれどこの人魚といると不思議と温かい気分になって。

私は広い世界へ興味があった。根を持つ故に動くことは出来ないけれど、だからこそ知りたいと強く渇望していた。

──ああ、それなら今の自分はまるで、あの頃の感情を、罪も罰ないただの花だったころの自分に、かえってしまったかのような。

ロイレイと話していると、長い孤独の中で見失った自身さえも、取り戻せるような気がしてくるのだ。
< 26 / 54 >

この作品をシェア

pagetop