人魚花
波の歌
──この入り江には、一日に一度だけ、大きな渦潮が発生する時間がある。
双子の月が及ぼす重力の影響だとか、満ち潮と引き潮の重なるタイミングだとか、それらしい理由付けをしようとする輩はいた。けれど海のなかの多くのものは、その大きな力を伴う流れを、『海神(わたつみ)の訪れ』の表れであると信仰していた。
(もう少し、かしら)
空の蒼さを見上げ、夜の深さを測った<彼女>は、そう判断すると、蔓に絡めていた"それ"を解放した。
すでに力を失っていた"それ"は、支えを失うと自然に従ってゆっくりと水面に昇っていく。
やがて、ぷかりと波紋をたてて浮かんだ"それ"が、薄明るい月明かりに照らされる。それは──ほんの数刻前、岬から転落した旅人の、亡骸だった。
そして、少しあと。
それは唐突に始まった。
穏やかな波の方向とはあべこべな方向からへ引っ張られる力を、<彼女>は感じていた。
(始まったわ)
そう思った刹那、水面に力なく浮かんでいた人間の骸は、力の方向へと静かに動き出す。
その様子を見守りながら、<彼女>は口を開いた。
海を統べる父よ 贈り物でございます
海を見守る母よ わたしの願いを叶えてください
口上に軽い節を付けて歌い上げながら、<彼女>は海神に、強く祈りを込めた。
骸は月光に照らされながら、静かに渦の中心へと流れていき……そこで、唐突に激しく旋回を始めて、そして勢いよく海底へと叩き付けられる。
その直後、糸が切れたように急激に潮の流れは弱まり、渦は霧散した。
(……終わった?)
<彼女>は内心で首を捻る。今日の渦は、いつもよりもだいぶ小規模で、しかもあっと言う間に終わったように感じた。
(……海神様は、今日は急いでいたのかしら)
無理矢理そう結論付けて、<彼女>は祈りの体勢を崩し、また空を見上げた。
普段ならば、しっかりと踏ん張っていないと根元から引っこ抜けそうになるくらいの大渦が発生するのであるから、これくらいの方が良いとも言えるだろう。……しかし、せっかく祈りを捧げているのにその対象が足早に過ぎ去ってしまうようなのは、祈りがとどいているのだろうかとやはり不安にもなるわけで。
(私の"願い"は、一体いつ叶うのだろう)
そんな想いに答えるように、<彼女>の歪な形の花弁にきらり、青白い月光が降り注いだ。