人魚花
「……憐れな花だな」

思考を遮ったのは、不意に飛んできた嗄れ声だった。

そちらへと目を向ける。<彼女>に警戒心はなかった。その声に覚えがあったからである。

「久しぶりね、蛸。何の用かしら」

そこにいたのは、赤とも茶色とも黒とも言えない色をした、ヒレも鱗もない、ぐにゃりと長い八肢を漂わせた、大きな蛸だった。

彼──それとも彼女なのかもわからないが、彼は入り江から少し離れた沖合の岩礁に、地震の起きるよりももっと前、<彼女>たち花が水中に根を伸ばすようになるそのずっと前から棲んでいる、と、いつか仲間から聞いたことがある。

初めて出会ったのは、<彼女>の最後の仲間が枯れてから少しした日の夜のことだった。途方に暮れて、けれど仲間を取り戻そうと、海神に向かって祈りの歌を歌う彼女を嘲笑い、蛸はこう言ったのだった。『海神はお前の歌なんぞ欲していない。あれに物を頼むなら、肉を用意しなければならない。そうだな……呪われた海辺に迷い込んだ、哀れな人の子のような、だ』。

思えば<彼女>が生贄を捧げ始めたのもこの時だった。その効果なのか<彼女>の枯れは止まったのだから、蛸は<彼女>の敵なのか味方なのか、よくわからない。

それ以降も時折ここにも姿を現して、仲間を蘇らせようと躍起になる<彼女>を嘲笑っては、また消えていくのだった。

<彼女>は蛸のことが好きではなかった。不気味な色合いも、魚とは全く違う質感も、嗄れた声も、こちらを逆なでするような言葉も。
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