人魚花
静寂が、暗い入り江を満たす。
辺りには自分以外の、どんな気配もなくなっていた。
仲間でも呼んで大群で押し寄せてくるかと思わないわけでもなかったが、どうやらその様子ではない。
痛いほどの沈黙に支配されている、僅かな波の音以外に尋ねてくる者はいない、これがもとの入り江だったと、<彼女>は思っていた。
(これで、良かったはずよ)
人魚が走り去っていった方向を睨みつけるようにして、<彼女>はそう、自分に言い聞かせる。
(最初から怪しいと思っていたんだもの。案の定私を騙していたのね。私には私の目的があるのだから、これ以上付き纏われたら迷惑だったわ。もうあの人魚に用なんてない)
波が引いていくように落ち着いていく心の片隅で、半ば必死に理由をつけて。
(苦しくなんてない──悲しくなんて、ないわ)
そう。だからきっと、これは気のせいだ。
去り際に見せられた、ひどく傷ついた表情が焼き付いてしまっているのも、今まで交わした僅かな会話が脳裏を駆け巡っているのも、静かすぎる波の音が責め立てるように聞こえてくるのも、全部全部、気のせいに決まってる。
──彼がもうここに来ないということを望んだのに、それにひどく絶望を感じているのも、私の気のせいに違いない。