人魚花
僅かな波が、水底に浮かび上がった月影を歪ませる。
(いつ人魚が殺しに来るかわからないから、入り江も閉じてしまおうかしら)
ぼんやりとそんなことを考える。
<彼女>の根は、既に入り江全体に広く張り巡らされている。
だからその気になれば、地盤を少し動かして、入り江を独立させてしまうことも可能なわけで。
地形を歪ませるなどということをすればさすがに目立って思惑がばれてしまうかもしれないと思い今まで避けてきたものの、もう知られていると思えば躊躇う理由はない。
海神に生贄をささげる時だけ隙間を作り、そこから外へと差し出せば何も困ることは無い。
(今思えば、初めてあの人魚が来た時にこうするべきだったんだわ)
今考えると、<彼女>はもっと警戒すべきだった。
人魚が来ることで、生贄を得ることが出来なくなっている。そしてそれが<彼女>を少しずつ枯らし、仲間を蘇らせるという目的から遠ざかっていることに気付いていたのだから、早くにも拒絶するべきだったのだ。
根の一端に力を込める。それはすぐに地面に伝わり、入り江の幾つかの出入口は徐々に閉じ始めていった。
そのさまを、自分が完全に孤独に隔離された存在になっていくさまをぼんやりと見つめながら、<彼女>の心に浮かぶのは危険から解放されたという安堵では決してなくて。
(ああなんだ、私は、孤独になりたくなかっただけなんじゃない)
その感情の種類に気付いて、浮かんだのは自嘲的な溜息だった。
人魚を完全に拒むことを躊躇っていたのは何故?迷わずにここに来る不自然さを怪しむことを忘れていたのは何故?彼による不都合は少なからずあったのに、真剣に対策を講じなかったのは何故?
──簡単だ。長い間孤独にさらされていた<彼女>は、初めて出来た彼という『友達』を、失いたくなかったからだ。
どんなに言い訳をしようと、心の底では彼を信じたい部分があったからだ。
例え自分は冷たい言葉しか返していなかったとしても、それでも、交わしている会話が、心地よかったからだ。
彼に──惹かれていたから、だ。