『それは、大人の事情。』【完】

それは、あっと言う間の出来事で、気付けば地面に押さえ付けられ、その男が私の体の上に馬乗りになっていた。


キャップを被っているから男の顔は見えないが、地下道の暗い蛍光灯に照らされた男の口元が怪しい笑みを浮かべているのだけは、ハッキリ分かった。


「やっ……やめて……」

「……フフッ、濡れた服が体に張り付いて色っぽいよ。そそられるな……」

「な、何言ってんの? 放して!」

「そんな格好してるアンタが悪いんだぞ」

「どうして、私が……」


男が服の上から体をまさぐってる。気持ち悪いのと恐怖で頭の中は完全にパニック。とにかく抵抗しなくてはと、体を大きく捻り手足をバタつかせる。


すると、思い通りにならない事に腹を立てた男が体を起こし、右腕を大きく振り上げたんだ。


―――殴られる……咄嗟にそう思い、無我夢中でその腕を掴もうと手を伸ばす。が、私が掴んだのは男の腕ではなく被っていたキャップだった。


「いゃあぁぁぁ―――っ……」


ありったけの声で叫び、そのキャップを払いのけると、隠れていた男の顔が露わになり、ガッツリ目が合った。顔を見られた事に焦った男が慌てて顔を隠す。


―――今だ!


一瞬男が怯んだ隙に、目の前の体を突き飛ばし、再び大声で叫ぶ。


「誰かぁ――っ、助けて――!」


でも私の声は、轟音を立て降り続く雨の音に掻き消され、地下道の外には届いてなかっただろう。それでも顔を見られ動揺した男は、キャップを拾い上げると雨の中に消えていった。


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