絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅴ
「遅れてしまって、申し訳ない」
足早に廊下を歩いてきた巽は、まず榊医師に頭を下げる。こちらから会っておきたいと時間指定もしておきながら、急遽仕事が長引いたせいで少し待たせたせいで、心底申し訳なく思っていた。
「いえ、大丈夫です」
榊医師は言葉通り大したことなさそうに、無表情で話を始めた。
「彼女は……昼間考えすぎて頭痛がすると、頭痛薬を飲んで寝たようですが、先ほどからは落ち着いています。少し、緊張はしていると思いますが」
「ああ……」
最後まで言葉を待たずに、彼は個室の扉を開けた。
「…………」
誰も、何も言わない。
「…………」
かける言葉が見つからなかった。
それは、明らかに彼女の表情が以前とは変わっていたからだ。
久しぶりに見たせいか、何なのか、見慣れたはずのその顔がそのあまりにも美しすぎて、俺はベッドの手前で立ち止まってしまった。
頭にはまだ包帯が巻かれている。でも、そんなことはまるで関係ない。一度合った視線もすぐに逸らし、今は若干俯いているが、それでも、血の気の引いた白い顔と伏せた長い睫、いつもより薄いピンク色の唇を見るなり、強引にでもかき寄せたいという衝動にかられた。
空気はこちらを拒否しているような、冷たい表情。なのに、それを振り向かせたいという気持ちが抑えられなかった。
「……」
思わず、手を握った。
「えっ!?」
彼女は。
大げさに驚いて、手を引っ込め、目を合せた後、榊医師を見向かって
「……この人?」
衝撃的な瞬間だった。
「落ち着いて。深呼吸しよう」
榊医師は俺の横をすり抜けて愛の隣に腰かけ、背中をさすって落ち着かせ始めた。俺に会ったことで、気持ちが動揺している……。
「え……いつ知り合ったんですか?」
顔はこちらを見てはいない。明らかに動揺して、怯えているようにさえ見える。
「愛。聞いて。ゆっくり、1つずつ。大丈夫。巽さんはしばらく居てくれるから」
「私……知らない」
「うんうん、そうだよ。大丈夫。今から教えてくれるから。今からでいいんだよ」
「でも、私……」
「うん、急でびっくりしたな」
「4年も恋人だったと言われても……」
「うんうん」
「無理です! そんな急に」
怒ったような声が驚くほど部屋に響いて、
「わ、悪かった。急に手を握ったりして……」
それしか、かける言葉が見つからない。
しかも俺が喋った途端、顔を顰めて
「無理です。私は覚えてないから、恋人に戻るなんて無理です。というか、恋人って何……」
恋人という言葉の意味が分からなくなったのかと、榊医師を見たが、彼はこちらを見ずに懸命に医師に徹していた。
「安心して。深く考えないで。巽さんは愛の見方だよ」
「それは久司だけでいい」
突然ぶち放たれた、とんでもない一言。
「まあまあ、怖がらないで。急に長年の恋人だと言われても落ち着かないのは分かるよ。何も急に今まで通りしようっていうんじゃない」
榊はこちらを向いて言葉を促す。
「……焦ってはいない。何も」
「突然触れるのとかはやめてください」
「…………」
「分からないんです、私。 その、事故の前までの私とは違うんです」
そうだろうが……。
「分かっている。だけれども、俺はお前に話さないといけないことがある」
突然、榊医師が怖いほどにこちらを睨んだ。だが俺は、目を合せて一瞬首を横に振った。分かっている。子宮のことを、今ここで言うつもりはない。
「何ですか? それは」
お前はようやく俺と目を合せた。睨んだようなその表情があまりにも整いすぎて、吸い込まれそうになる。
「……思い出せないのなら、今から2人で今までの歴史を作っていけばいい」
「……」
「俺はお前と結婚をする約束をしている」
「えっ!?」
お前は驚いて口元を手で隠した。
「パリのウェスタン教会は有名すぎて嫌か?」
お前が5年の記憶を失くしたところで、純白のドレスを着て教会で式を挙げることに夢を見ていないわけがない。
「…………」
脈があるのがすぐに表情で分かる。その辺りは変わりないようだ。
「お前を幸せにできるのは俺だけだ。お前の考えていることならなんだって分かるし、お前の思い通りにさせてやれる」
俺はゆっくりと簡易椅子に腰かけながら、自然に距離を詰めた。
お前は、口元を押さえて押し黙り、また顔を歪める。
「そんな……結婚とか急に言われても、私は何も覚えていないし……」
「思い出す必要はない。今知り合ったのだから、それでいい…」
手に触れたい。
顔にふれたい。
抱き締めて、俺が背中をさすってやりたい。
お前を抱くのは俺だけだろう?
お前に触れるのは俺だけだろう?
お前は、俺だけの物だろう?
問いたいが……、答えは既に出ていることも分かっている。
ほんの数日前まで、すがりついて来るのをなんとなく相手するふりをしていたのが信じられなくなった。
プライドや嫉妬もかなぐり捨てて、がんじがらめにしておけば良かった。
どこにも出さずに、閉じ込めておけばよかった。
他の男と遊び歩くのを知って、平気なふりなどするものではなかった。
結局、他の男の隣に納まってしまうなんて、考えもせず……傷つけることで逃れられないようにした過ちが今ここにいて自らに降りかかって来ている……。
「久司……」
お前は、何に構うこともなく、榊医師の肩に顔を埋める。
「………」
そして医師は、申し訳なさそうに無言でこちらを一瞥すると、愛の方に身体を向けた。
そんなことって。
そんなことがあってたまるものか。
「…………愛……」
耐えきれずに名前を呼ぶ。
だけど返ってきた言葉は。
「久司……頭いたい」
「今日はもう薬はやめておこう。我慢できる?」
「…………」
「とにかく、休もう」
言いながら榊医師はこちらを再び見た。
帰れということなのか。
そんな……。
何故俺のことを覚えていない……。
「……久司……」
「ん?」
俺がまだいる所で、2人きりの会話はただ進んでいく。
「寝るまでついてて」
そんな甘えた言葉、俺には一度も……。
「うん……」
言いながら腕時計を確認した。顔は少し渋っているようだが、それでも愛の言葉には応じるようだ。
「それじゃあ巽さん、また……」
榊医師は、突然面倒臭くなったのか、無表情でそう言うと俺の存在をシャットダウンする。
「久司……明日仕事?」
「ああ。帰って洗濯しないとな」
先ほどまで眉間に皴を寄せていた愛は突然頬を緩ませた。一体、何が可笑しい。
愛……一体、何が可笑しい……。
足早に廊下を歩いてきた巽は、まず榊医師に頭を下げる。こちらから会っておきたいと時間指定もしておきながら、急遽仕事が長引いたせいで少し待たせたせいで、心底申し訳なく思っていた。
「いえ、大丈夫です」
榊医師は言葉通り大したことなさそうに、無表情で話を始めた。
「彼女は……昼間考えすぎて頭痛がすると、頭痛薬を飲んで寝たようですが、先ほどからは落ち着いています。少し、緊張はしていると思いますが」
「ああ……」
最後まで言葉を待たずに、彼は個室の扉を開けた。
「…………」
誰も、何も言わない。
「…………」
かける言葉が見つからなかった。
それは、明らかに彼女の表情が以前とは変わっていたからだ。
久しぶりに見たせいか、何なのか、見慣れたはずのその顔がそのあまりにも美しすぎて、俺はベッドの手前で立ち止まってしまった。
頭にはまだ包帯が巻かれている。でも、そんなことはまるで関係ない。一度合った視線もすぐに逸らし、今は若干俯いているが、それでも、血の気の引いた白い顔と伏せた長い睫、いつもより薄いピンク色の唇を見るなり、強引にでもかき寄せたいという衝動にかられた。
空気はこちらを拒否しているような、冷たい表情。なのに、それを振り向かせたいという気持ちが抑えられなかった。
「……」
思わず、手を握った。
「えっ!?」
彼女は。
大げさに驚いて、手を引っ込め、目を合せた後、榊医師を見向かって
「……この人?」
衝撃的な瞬間だった。
「落ち着いて。深呼吸しよう」
榊医師は俺の横をすり抜けて愛の隣に腰かけ、背中をさすって落ち着かせ始めた。俺に会ったことで、気持ちが動揺している……。
「え……いつ知り合ったんですか?」
顔はこちらを見てはいない。明らかに動揺して、怯えているようにさえ見える。
「愛。聞いて。ゆっくり、1つずつ。大丈夫。巽さんはしばらく居てくれるから」
「私……知らない」
「うんうん、そうだよ。大丈夫。今から教えてくれるから。今からでいいんだよ」
「でも、私……」
「うん、急でびっくりしたな」
「4年も恋人だったと言われても……」
「うんうん」
「無理です! そんな急に」
怒ったような声が驚くほど部屋に響いて、
「わ、悪かった。急に手を握ったりして……」
それしか、かける言葉が見つからない。
しかも俺が喋った途端、顔を顰めて
「無理です。私は覚えてないから、恋人に戻るなんて無理です。というか、恋人って何……」
恋人という言葉の意味が分からなくなったのかと、榊医師を見たが、彼はこちらを見ずに懸命に医師に徹していた。
「安心して。深く考えないで。巽さんは愛の見方だよ」
「それは久司だけでいい」
突然ぶち放たれた、とんでもない一言。
「まあまあ、怖がらないで。急に長年の恋人だと言われても落ち着かないのは分かるよ。何も急に今まで通りしようっていうんじゃない」
榊はこちらを向いて言葉を促す。
「……焦ってはいない。何も」
「突然触れるのとかはやめてください」
「…………」
「分からないんです、私。 その、事故の前までの私とは違うんです」
そうだろうが……。
「分かっている。だけれども、俺はお前に話さないといけないことがある」
突然、榊医師が怖いほどにこちらを睨んだ。だが俺は、目を合せて一瞬首を横に振った。分かっている。子宮のことを、今ここで言うつもりはない。
「何ですか? それは」
お前はようやく俺と目を合せた。睨んだようなその表情があまりにも整いすぎて、吸い込まれそうになる。
「……思い出せないのなら、今から2人で今までの歴史を作っていけばいい」
「……」
「俺はお前と結婚をする約束をしている」
「えっ!?」
お前は驚いて口元を手で隠した。
「パリのウェスタン教会は有名すぎて嫌か?」
お前が5年の記憶を失くしたところで、純白のドレスを着て教会で式を挙げることに夢を見ていないわけがない。
「…………」
脈があるのがすぐに表情で分かる。その辺りは変わりないようだ。
「お前を幸せにできるのは俺だけだ。お前の考えていることならなんだって分かるし、お前の思い通りにさせてやれる」
俺はゆっくりと簡易椅子に腰かけながら、自然に距離を詰めた。
お前は、口元を押さえて押し黙り、また顔を歪める。
「そんな……結婚とか急に言われても、私は何も覚えていないし……」
「思い出す必要はない。今知り合ったのだから、それでいい…」
手に触れたい。
顔にふれたい。
抱き締めて、俺が背中をさすってやりたい。
お前を抱くのは俺だけだろう?
お前に触れるのは俺だけだろう?
お前は、俺だけの物だろう?
問いたいが……、答えは既に出ていることも分かっている。
ほんの数日前まで、すがりついて来るのをなんとなく相手するふりをしていたのが信じられなくなった。
プライドや嫉妬もかなぐり捨てて、がんじがらめにしておけば良かった。
どこにも出さずに、閉じ込めておけばよかった。
他の男と遊び歩くのを知って、平気なふりなどするものではなかった。
結局、他の男の隣に納まってしまうなんて、考えもせず……傷つけることで逃れられないようにした過ちが今ここにいて自らに降りかかって来ている……。
「久司……」
お前は、何に構うこともなく、榊医師の肩に顔を埋める。
「………」
そして医師は、申し訳なさそうに無言でこちらを一瞥すると、愛の方に身体を向けた。
そんなことって。
そんなことがあってたまるものか。
「…………愛……」
耐えきれずに名前を呼ぶ。
だけど返ってきた言葉は。
「久司……頭いたい」
「今日はもう薬はやめておこう。我慢できる?」
「…………」
「とにかく、休もう」
言いながら榊医師はこちらを再び見た。
帰れということなのか。
そんな……。
何故俺のことを覚えていない……。
「……久司……」
「ん?」
俺がまだいる所で、2人きりの会話はただ進んでいく。
「寝るまでついてて」
そんな甘えた言葉、俺には一度も……。
「うん……」
言いながら腕時計を確認した。顔は少し渋っているようだが、それでも愛の言葉には応じるようだ。
「それじゃあ巽さん、また……」
榊医師は、突然面倒臭くなったのか、無表情でそう言うと俺の存在をシャットダウンする。
「久司……明日仕事?」
「ああ。帰って洗濯しないとな」
先ほどまで眉間に皴を寄せていた愛は突然頬を緩ませた。一体、何が可笑しい。
愛……一体、何が可笑しい……。