絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅴ
「今日は定時で上がるから」
 
 という言葉を誰も覚えていないのか、既に残業が1時間経過し、香月との約束の時間が迫ってきてしまっている。

 お先どうぞの一言があれば帰りやすいのになと思いながらも、「悪いけど、今日は用がるから」とわざわざ謝ってから退社した。

 時刻は6時10分。ここから走って5分。15分の遅刻だ。

 腕時計を見ながら、先に電話をしておく。時間がある香月は時間前に来て待ちぼうけているはずだ。

「もしもし、悪い」

『大丈夫です。こちらこそすみません』

 ああ、その声を聞くだけでほっとしてしまう。

「走って行くから。あと5分くらい」

『大丈夫ですよ。お店の前で待ってます』

 ずっと考えていた。指輪に気付いていないのなら、今日は指輪を外して行こうかと。

 何度も何度も考えた。

 だが、考えているだけで実際は。外して行く勇気などどこにもなかった。

 帰る場所がある。それを捨てることができない。それくらい自分は年をとってしまったのだ。

 香月が生きる道とは違う。例え記憶を失くしてしまっていたとしても。

 そう、生きる道は全く違っているはずなのに。

 わざわざ中央ビルの懐石料理店へ呼んだ。

「ああ! 良かった。ここ私、初めてだから最初場所間違えたのかと思いましたよ」

 そんな馬鹿な。

 ここで俺はお前に告白したじゃないか。

「……悪いな。仕事が長引いて……」

「いえ、こちらこそ。こんな素敵なお店で食事できるなんて、今日はラッキーです」

 にっこり笑ってその笑顔に包まれる。
 
 そうだ……だから俺はお前のことが忘れられないんだ。

 2人きりで個室に入り、食事を前にすると幸せな気持ちになりすぎて、終始笑顔になる。そして香月も機嫌良く、話はどんどん弾んでいく。

「じゃあ……来月からでいいんだな? もう半月しかないけど」

「はい……。その、業務に関しては全く分からないことはないと思うんです」

「まあ、基本は同じだけど、5年前からなら、ちょこちょこは変わってると思うよ。何かする前には必ず確認しといた方がいい。新人になったつもりで」

「はい、分かりました。予め、勉強会なんかをしておいた方がいいですか?」

「いや……いいよ。出社し始めてからで。すぐに慣れると思うし」

「はい……ちなみに……選べる立場じゃないですけど、本社か店舗かは……」

「……俺は正直今すぐ本社は無理だと思う。業務どうこうというよりは、周囲との溝が気になるだろ。うまく打ち解けられないと思う。

 それに対して店舗なら知らない人ばかりだし、その方が仕事しやすいだろうし……。

 まあ、俺が考えてるのは、実家から近い月島店だけど」

「えっ!? あそこは閉鎖された記憶が……」

「いや、以前より実家から少し離れた場所に新しいのができたんだ。もう自転車で通うことはできないと思うけど」

「あ、そうなんですか! へー、全然知らない……」

「…………、中型の店で人数も少ないし平和な店だからやりやすいと思う。この俺の意見は通したいと思ってる………香月の為に」

 まっすぐ前を見て、目を見て心を込めて言った

「はい」

 お前も、まっすぐ向いてそれに応えてくれる。

 ふっと笑いが漏れた。俺が欲しいのはその、いつもの「はい」じゃない。

「まあ……そんなとこだな。だから、話が決まったらちょこちょこ電話するよ」

「助かります。ありがとうございます」

 本当に……信じられないほどの笑顔で他人行儀な言葉を並べるんだな……。

「あの、それから、私が聞きたかったお話なんですけど」

「何? 」

 慌てるな。決して俺のことではない。



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