絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅴ
2月1日 職場復帰
2月1日
帰るまで待てなかった。
閉ざされた車内でただ、涙が溢れてくる。
誰に気遣うこともないせいで、嗚咽まで漏れる。
自ら宮下に提示した今日から出社したものの、その日のエレクトロニクスの売り場はまるで、別世界であった。
今まで通っていた東都シティとは違う。
5年後の、自分の知らない今であった。
初めて、自分が記憶を失くしたことを憎いと思った。
こんなとになったいきさつを呪った。
それすらも思い出せずにただ涙が溢れる。
新しい家電、それだけではない、接客の中での会話。それらすべてが怖かった。
何も知らない自分だけが、そこに取り残された気がして、製品の影に隠れるように立っているのがやっとだった。
記憶を取り戻したい。
記憶を戻して元に戻りたい!
初めて強く思った。
みんなが心配してくれていたわけが、ようやくわかった。
何故今まで自分が呑気にいたのか、不思議だった。
このまま運転を続けるのは危険と判断して、車をコンビニの駐車場の端に入れる。
鼻をすすり、榊に電話をかける。
だが、出ない。
仕事中なのかもしれないし、それ以外なのかもしれない。
溜息をつきながら、電話帳をスクロールさせる。
そうだ。思い出せないのなら、その医療的方法が本当にないのなら、周りに聞いて記憶を建て直せばいい。
佐伯、西野……。
宮下……。
巽……。
考えるのが嫌ですぐに発信ボタンを押した。
ディスプレイには、宮下と表示されている。
『お疲れ様』
「…………」
たくさんの言葉が頭に浮かぶのに、今本当に宮下に伝えなければならないことは何なのか、一瞬で分からなくなる。
『香月?』
「……はい」
『あぁ……、どうした? 今日初出社だっただろ。店長には朝連絡したんだけど、どうだった?』
「…………どうも、こうも……」
『やっぱりまだ早かったか?』
そうなのだろうか、これが、ひと月ふた月経てば変わってくるのだろうか。
「……、分かりません」
『…………どうだった?』
「会って、話を聞いてくれませんか?」
『……うーん、早い方がいいだろ?』
「はい」
『なら、電話が一番早い。悪い、今出て行く時間がないんだ』
「はい……」
宮下にも仕事はたくさんある。宮下は、宮下にしかできない仕事で溢れているに違いない。
『もうしばらく休むか?』
「……記憶が戻るまでってことですか?」
『…………、療養休暇は1年だから、期限はあるけど』
「…………」
『……何に一番引っかかった? 人間関係? 売り場の商品?』
「人間関係は、それほど……ただ、少しみんなが避けてる気はしましたけど」
『うん……』
「売り場の商品は全部そうです。そりゃそうですよね、5年も経ってるんだから……」
『うーん、無理にとは言わないけど。倉庫に行くか? あそこは荷受けなんかは全部1人だから。今の倉庫の子が上に上がれると思うから、交代できる。多分大丈夫だと思うけど』
「…………」
倉庫……悪い響きではない。
『まあ、とりあえず先にもう一回休もう』
「…………いえ、倉庫の案、なら大丈夫かもしれません」
『いや、無理はしてほしくない。とりあえず今月は休むようにしよう』
「いえ、待って下さい。明日はもう一度出社させて下さい」
『なら、倉庫で。だ』
「…………はい。それで……」
『まずそのシフトが組めるかどうか確認する。その上で復帰にしよう。焦るとよくない』
「はい……ありがとうございます。宮下店長……」
『……よし、じゃあまた連絡する。遅くなったらメールにするから』
「はい、大丈夫です」
宮下も随分仕事が精密になったような気がする。
そうだ、今は営業部長だ。店長と呼んでも何も反応しなかったが、気を遣ってくれていたに違いない。
大きな溜息が出た。
こんな時に慰めてくれる人がいればいいのに、と思う。
突然、さみしくてたまらなくなった。
巽に……会いたい……かもしれない。
あの、会食以来連絡は取っていない。何度か、電話がかかってきたが取れなかった時もあったし、折り返しの連絡もしていない。
今さらかけるのも、悪いかもしれないけど……。
ディスプレイを見つめる。
巽。
今、どこにいるんだろう。
通話ボタンを押そうとした瞬間、画面が切り替わり、バイブレーションで震えたので驚いた。とっさに通話ボタンを押してしまう。
「…………」
多岐川さん、と名前が出ている。どこの誰だろう。
「はい、もしもし」
『もしもし、私です。多岐川です。覚えていますか?』
どういう意味で言っているのかよく分からなくて、返事に困る。
「えっと……」
『記憶のことは聞きました。覚えてないかもしれないけど、私は結構お世話になったんです。仕事というよりは、プライベートで』
「えっ、あ、そうなんですか」
首を最大限かしげて考えてみるが、多岐川という女性がまるでヒットしない。プライベートでということは、社内ではないのだろう。
『で、ちょっとお渡ししたい物があるので、会えたらと思うんですけど。今どちらです? まだ店ですか?』
「えっと、今は仕事の帰りで。自宅の近くです。コンビニです」
渡したい物ということは、それなりに仲が良かったんだろう。何か、貸した物でもあったんだろうか。それとも、復帰祝いだろうか。
『ええと、どこですか?』
「南区です」
『えっと、どうしようかな。私今中央区なんです。良かったら、少しお話でもどうかな、と』
車内のデジタル時計は20時57分。今から中央区に行って話など、突然すぎると思うが、仕方ない。
「分かりました。そのまま中央区に向かいます」
『ありがとうございます!30分くらいですか?』
「そうですねえ……」
『駅ビルの中に美味しいイタリアンがあるので、良かったらそこで』
「分かりました」
全くそんな気分ではないが、仕方ない。
『突然ですみません。本当はもっと早く渡したかったんですが、なかなか電話もしにくい状況だったので』
「そう……だったかもしれません」
『じゃあ、待ってます』
車の中でもんもんと考え抜いたが結局、多岐川が何をしている人なのかも全く分からない。
その事を思うと、車を停車させた瞬間、一気に面倒になってくる。
記憶がなくなって、覚えていないことを一通り詫び、話を一から聞かなければいけない状況に内心うんざりする気持ちもあったが、渡したい物がプレゼントだった場合、最高に嬉しい結果になる。
そう思いついた途端、後者に確信をもってしまい、最後には半分笑顔で車を降りた。
「香月せんぱーい!お久しぶりですー」
全く見覚えがなく、しかも先輩と呼ばれてドキドキしながらなんとなく相槌を打つ。
「え、ああ……多岐川さん……」
綺麗なベージュのブレザーに少し花柄が入った可愛いスカートの多岐川は、本社の雰囲気が溢れていて、エレクトロニクスであることを確信した。
「そうです! 覚えてくれてましたか!?」
いや、そういうわけじゃないんだけど……。
何歳くらい年下なのだろう。25、6くらいな気はするが。
「いや、ごめん……あんまり……」
たどたどしいこちらに少し引いた多岐川だったが、それでも、半ば強引に前へ歩き始めた。
「あ、その、今日が初出社日だって宮下部長から聞いて、お電話したんです」
「ああ……」
そうだ、宮下部長だ……。ということはやっぱり……
「多岐川さんって本社……かな?」
「………」
無言で前へ進む多岐川に戸惑いながら、もう一度尋ねる。
「多岐川さんって本社にいるんですか?」
「……そうですよ。そのー……本当に忘れちゃったんですね」
「…………」
ぐさりとくる一言を言われて、声が出ない。
すぐに2人は店に入ると、案内された丸テーブルに2人で腰かけた。
彼女は慣れた様子でパスタディナーを2つ注文する。
突然のわりにコースなど、さすが本社の人間は違うと感心した矢先に、彼女は白い封筒を出してきた。
「…………」
コース料理に納得。
「これ……」
「私の結婚式の招待状です。その……香月先輩には出席してほしくって」
嬉しいやら、悲しいやら……。先ほどの一言がまだ胸に刺さったままで、あまり仲良くなれそうにないと思っていたのに……この封筒……。
「中央区に新しくできる結婚式場なんです! まだオープンしてないんですよ!」
「へえー……すごいね!!」
できるだけ、盛り上げる。
「相手は、附和物産の社員なんです! 実は、本社の近くで偶然知り合って。仲良くなって……」
「あぁ……」
附和……なんだっけ。聞いたことがある名前だったような気がするけど、まあ、関係ないだろう。
「それで、香月先輩には受付もお願いしたいなあって」
挨拶よりは、ましか、と、間髪入れず
「いいよ」
と、答えた。それくらい仲が良かったらしいのだから、仕方ない。
「あぁー、良かった。香月先輩に断られたらどうしようかと思いましたよー」
笑顔は素直だ。こちらもほっとして、水を飲む。
「ところで、今はどちらにお住まいなんです?」
「実家」
「前は確か、東京マンションに住んでましたよね。今でも四対さんとは仲いいんですか?」
多岐川が四対とも知り合いだという過去が見えないことに、戸惑いながら、
「うん……。まあ、連絡は取ったりしてるけど……」
「まあ、今さらですけど、私に四対さんを紹介した話とかも忘れちゃったんでしょうね」
「えっ!?!?」
そんなことあったんだ……。
「うわっ、本当に忘れてる」
多岐川は吐き捨てるように言ったが、すぐに運ばれてきたスープとサラダに目を輝かせた。
「……ごめんね、全然覚えてなくて」
謝るのも癪だが、謝る以外に方法が見当たらない。
「まあ、昔のことですから」
四対と多岐川……この2人が合うと思ったんだろうか、私は……。まあ、ある意味合うのかもしれない。
「で、香月先輩は彼氏とかはいないんですか? って変な質問かもしれませんけど」
記憶喪失のことを気遣って出た最後の言葉だろうが、全く持って余計だ。
「……いる……よ。
私も、結婚するかも」
勢いで出た言葉だが、多岐川は予想以上に反応した。
「嘘!! まさか四対さんじゃないですよね!!」
どういう真剣な眼差しかは知らないが、香月は胸を張って答えた。
「四対さんじゃないけど。でも、結婚式するなら、アベンティスト教会かなとは思ってるの」
と、確か巽は言ったはずだ。それを調べたわけではないので、ここにきて、一度ネットで調べておけばよかったと後悔する。
「え、どこです? 」
敢えて聞かれると、恥ずかしくなって答えづらいが、
「ロンドン」
と、なるべくさらりと答えた。
「あー……海外ですか……」
多岐川がしゅんとなるのを見た瞬間、時期花嫁を前に、いらぬ見栄を張ってしまったことを即後悔する。
「え、まさかとは思いますけど」
その彼女の表情があまりにも引きつったので、そのまさかが的中していないことをこちらも望み、同じように引きつる。
「附和物産の社長とかじゃないですよね。確か成瀬さんが、香月さんの知り合いだったような気がするって言ってましたけど、さすがにそれはないですよね」
あれ? 巽はなんという会社に勤めているんだろう……そういえば詳しく聞いたことがない。
「……」
答えに若干間が空くと、
「附和 薫じゃないですよね?」
名前が出て良かった。
「違うよー」
間を埋めるために、あえて語尾を伸ばす。
「でもどっかの社長とかですよね。香月さんのことだから」
その「ことだから」の意味が分からないが、そういえば巽はどこの会社に勤めているのだろう。言われてみれば、まるで社長のようなスーツを着ていた。
「うーん、まあそんなもんかなあ……」
「そういうの好きですよねえ。肩書で選ぶタイプですよねー」
「…………」
さすがに、言葉が出ない。
「ロンドンかぁ……。その時は私も呼んで下さいね。私、受付しますから」
多岐川の不思議な笑顔と別れて車に乗り込むと、目を閉じて首をぐるりと回した。
「ふー……」
溜息も出る。
結婚式の日にちはいつだったか、まだ先だろうけど休みとらなきゃともう一度封筒を開け、日を確認し直すと、来月になっていて驚いて二度見した。
なんでこんな急なのよ……って、私の記憶のせいか……。
そうか、今日の結婚式のことも私はあらかじめどこかで知ってはいたのかもしれない。だとすれば、多岐川からしても、同じ話を二度したことになる。
それを考えれば、まあ、会話は順調に進んだ方である。
まあ、良しとしよう。
そう締めくくりながら、携帯電話に巽の名前をすぐに出す。
ここから新東京マンションは少し時間がかかるし、自宅にいるかどうかも分からない。
耳に当てて三度目のコールを聞いた後、すぐに
『もしもし』
という、懐かしい低い声が聞こえて、一時言葉を失った。
「……」
『もしもし?』
「あ、うん。もしもし……」
『どうした?』
どう、と言われても……。
「いや……」
結婚の話をして、人恋しくなった。だけだ。
『どこにいる?』
「中央ビルの近く」
『迎えに行こう』
「ううん、車なの。自分の」
『買ったのか、運転できるのか?』
「うん……覚えてた。大丈夫だよ。小さい車だし」
『……会って話すか?』
「うん……そだね……」
『今風呂の途中だが、一時間でそこまで行ける』
「あそうなの……じゃあ私が行くよ」
『……』
「家まで行こうか。ナビで道分かるし」
『あぁ……』
「……お腹いっぱいだけど、喉渇いたから飲み物だけ買って行くよ」
『あぁ……』
「部屋何階?」
『最上階だ。マンションに入るには暗証番号が必要だから、着く前に電話してくれればいい。降りて行く』
「あうん……暗証番号なんてあるんだ。厳重だね。じゃあ今からコンビニ寄ってから行くから。ちょっとかかるかも」
『ああ……準備しておく』
着く前に電話をと言ったが、どうせ着いてから電話をかけてくるに、決まっている。
経験済みの巽は、不安半分、期待半分で自分をニュートラルに制しながら衣服を整え、エレベーターでロビーまで降りていた。
どういう風の吹き回しか知らないが、突然飲み物を買って自宅に来るなど何があったのか。だがしかし、悪い兆候ではない。
記憶が少しでも回復していればいいのだがと、半分溜息をつきつつも、にやけた顔を制しきれずにロビーのソファで腰かける。
すぐにカウンターの中のボーイがやってきて、
「巽様、いかがいたしましたでしょうか」
とマンションオーナーに問いかけて来る。
「いや、人を待っているだけだ。このままでいい」
「かしこまりました」
ボーイの行く先も見ず、ただガラス張りの窓だけ眺める。
その後、予定より10分以上遅れて黄色のワーゲンが姿を現す。巽はすぐにエントランスに行くと、ベルボーイに車を頼むよう話し、コンビニの袋を下げた愛を迎え入れた。
無言で手を差し伸べる。
「……え」
愛は立ち止まり、顔を見上げた。
「荷物を持とう」
「……ああ、ありがとう。瓶が重いの」
少し笑うと、素直に手提げを渡した。何やら、ビールに酎ハイにウィスキーと買い込んでいる。
「なんか、何飲もうか迷っちゃって。で、シフト変更で明日休みの連絡が入ったのもあるし」
愛はにこりと笑うと、扉が開いたエレベーターへと自ら乗り込む。
「えっとぉ、最上階って33階?」
「ああ」
扉は簡単に閉まる。
「ここって、すごいマンションですよねえ、門入る時迷いましたよ。ナビでは新東京マンションっってなってるけど、ホテルみたいだし、かといって名前が出てないし」
「マンションの名前を門に書く案、検討してみよう」
「………え?」
愛は訳が分からなさそうに、怪訝な笑いをした。
「ここのマンションは俺の持ち物だ」
「……えっ!?!?」
愛はどんな必要があるのか、狭い辺りをぐるりと見まわした。
タイミングよく、扉が開き、長い通路が見える。
「ここの……」
「そうだ。最上階は全て俺の住居エリアだ。ここから先は誰にも会うことがない」
「…………」
愛は黙ってエレベーターを降りる。その、黙り具合が気になって顔を見たが、悪い雰囲気ではなさそうだ。
「…………」
靴を脱ぎながらも広さに戸惑っているのが分かる。
巽は悲しさを捨てて、楽しめばいいと自分に言い聞かせ、先に部屋へ上がった。
「すっごい広いですね……うわー、家電も最新……」
「……そのハードディスクには何も入ってないがな」
「嘘!? 私が言いたいこと、分かります??」
愛は飛び上がるように喜んだ顔を見せたので、俺もつられてしまう。
「なんとなくな」
「えー、何も入ってないって。じゃぁなんでこんな容量が大きいの買ったんですかねえ……。まあ自由ですけど」
全く変わってないなと安心しながら、グラスをテーブルに並べていく。
「……何を飲む?」
俺は先にソファに腰かけて、バーボンをグラスに入れながら聞いた。
「えーっと、どうしよう。あんまり考えずに買ったから……」
という量と、時間ではない。
「お前は酎ハイを飲むつもりで、俺がウィスキーか何かを飲むつもりで買ってきたんだな」
「………分かります?」
お前の思考回路くらい……。
「お前は、俺が何を飲むのか詳しくは知らないからな」
「……なるほど」
おそらく、何にも納得はしていないだろうが、納得した振りをして隣に腰かけてきた。
予想通りオレンジの酎ハイを開けるとグラスに注ぐ。
「じゃあ、うーんっと、乾杯」
愛は勝手にグラスを合わせ、カチリと鳴らすと飲み始めた。
何を話したいことがあるのか、何時間でも黙って聞いているつもりだったが、予想通り愛は一口飲んだところで、口を開いた。
「アベンティスト教会って、約束してたんですか、私」
全てが勢いよく合致する。
「確定、とまではいかないが、候補には上がっていた。アベンティスト教会は有名だからな」
「そんなに有名なんですか?」
「……日本でどのくらい知られているかといえば、難しいが、ロンドンでは有名だ。有数の教会の一つではある」
「そこで、結婚式……披露宴?」
「友達を呼びたい、会社の人も、旅費は出したいと言っていたな」
「やっぱ結構決まってたんだ」
「全てはお前が言っていたことだが、それと同時に決まったことでもある。好きなようにすればいい」
「……それって何でも好きなようにすればいいって」
「いうことじゃない。大枠のロンドンで、式も、披露宴も、というところは俺の許容範囲という意味だ」
全てお前のいう通りに、と大きな事を言ってのけたいが、後で言い訳するわけにもいかないので、最善の策だけは立てておく。
「…………私、あなたのこと、好きだったかもしれない」
何の前後もない、唐突な一言に、思わずグラスが揺れた。
しかも、まだ酔っていないことだけは確かだ。
酒が服に少しだけこぼれる。
「分かんないけど、そんな気がする」
あまりにも真剣に見つめて言う一言。
「だからここにいるんだろうが」
苦笑をこらえきれないまま、肩を揺らして答えた。
「え、5年の間に結婚の話が出なかったんですか?」
「………出たさ、何度も。ただ、お互いの想いが結婚に向くタイミングが合わなかった。最初はお前が俺に結婚を懇願した」
巽はゆっくり、目を見つめながら、誤解のないように話を進めることに務める。
「だが、俺はその時は受けられなかった。しかし、しばらくしてその思いを受ける気になったんだ」
「………」
「しかしその時には、お前の中には結婚の文字が消えていた。仕事のことが中心になってきていたからな」
最後の一言は余計なつけたしだったような気がして、
「ただ、今は合っている。それは、間違いない」
と、念を押した。
「……5年……も付き合ったんだから、うまくいくかな……とか思うけど……」
「ああ」
「…………私ももう年いってるみたいだし……」
「…………」
子宮の事が当然のごとく頭によぎった。
だが、今出すべきかどうか最大限悩む。
「………結婚はいつでもできる。俺は、いつまででも待つつもりだ」
心を込めて、きちんと伝えておかなければと息を吸うのも忘れて言ったが愛は、
「やだよ。35までには結婚したいし」
思いがけない笑顔を見せて来る。
「今日さあ……あの子いくつなんだろう……。年下の後輩にさ、全く覚えてないのに結婚式の招待状もらっちゃってさ」
「呼べばいい。その部下も」
その一言で満面の笑みを浮かべた愛は、
「そうなんだけどね」。
変わらない。
「あ、そうだ。あのねえ。附和って人知ってるかな。その人の旦那さんが附和物産に勤めてる人らしいんだけど、そういえば入院中にその名前を聞いたような気がして……」
「ああ……」
巽は3秒考えて、
「俺の知人だ」
「え、その旦那さんが!?」
「いや、附和物産の社長だ」
「えーーーー!!! なんだっけ、名前、なんだっけ!?」
「附和 薫」
「うそー!!! えー、……嘘ぉ!! 私も知り合いなの??」
「ああ。入院したことは知らせてないしな。もともと俺を通じて面識がある程度だ」
「えー………うそぉ」
「何が嘘だ」
わけが分からず、可笑しくて苦笑した。
「あーそうだ。私、………」
そこで愛は何かを思い出したのか一時停止して。
「私、あなたの勤め先の名前知らないの」
「アクシアグループだ。 元は父親の会社を継いだ。クラブ、ホテル、マンション、その辺りを中心に手がけている」
「………あ、それでこのマンション……、え、ホテルも?」
「ディズニーランド付近にもある」
「えー!!!すっごい、いいとこ!!!」
そう叫ぶなり、愛は一時停止すると、
「私、どうやって知り合ったんだったっけ……」
「………とある客船の中だ。その時は顔見知り程度だったが、その後偶然ホテルで再会したんだ。確かお前は、ランチビュッフェをすっぽかされて時間を持て余してロビーにいたところだったと思う」
「絶対佐伯だ」
「………、そこでディズニーランドとシルクドソレイユのチケットがあるからやると言ったら、一緒に行こうと誘ってきたんだ」
「私から?」
「ああ。だが俺はあいにく当日仕事で行けなくなり、代わりに俺の秘書と行くことになった」
「わざわざ秘書の人手配してくれたんだね……」
「…………、その後食事して……という具合だな」
「うわあ……なんか、信じらんない。そもそも客船なんて、私何してたんだろ」
「……友人と旅行とでも言っていたような気がするが」
「それは佐伯じゃないや」
愛は笑いながら、グラスを置いた。
「なんか、嘘って感じ。信じらんない、こんなに素敵な人を見つけてたんだね……私……」
「……、そうだな」
俺はグラスを置いて、ソファの背に腕を回した。
丁度愛の背中らへんに腕が回り、ドキリとするのが後ろ姿で分かる。
慎重にいかねばならない。分かっているのにも関わらず、すぐに手が肩に伸びてしまった。
「え……」
その声を聞いて思い出し、ハッと手を離した。
「……触れてもいいか?」
愛のグラスに手をやる。
「えっと……」
それでも、そのグラスを手渡してくれたので、ここぞとばかりに抱きしめた。
高揚して、興奮が先に立つ。角度を変え、強さを変え、何度も何度も抱きしめ直す。
愛も、それに嫌がる風もなく、ただ静かに受け入れてくれる。
その匂いが。
その柔らかさが。
その全てが。
全て俺の物なんだと、隙間なく腕に包み込んでいく。
到底我慢などできそうにない。
このまま最後までいき果てたい。
「……………」
慎重に、今度こそ慎重に、先を見据える。
「…………明日は指輪を買いに行こう……。結婚指輪だけでなく、すぐできるようにペアリングも買えばいい」
愛は何も言わなかったが、そのままキスをする。
予想通り、抵抗はない。
目を開けた。巽は腕枕をしたままで、携帯電話を見つめ、その合間に煙草をふかしている。
目を閉じ、もう一度思う。
私、めちゃくちゃ良い人見つけてたんだ……。
昨夜は感じたことのないほどの快感と、絶頂と、疲労を繰り返し、何がどうだったのかあまり覚えていない。
ただ時折、「愛している」と耳元で囁かれ、知り尽くしたように身体を扱われて、好きにならないわけがない。
めちゃくちゃ最高じゃん……。
まだ疲労がとれず、目を閉じたままで笑顔になる。
煙草の匂いも気にならず、むしろ恰好良いと思えた。
このまま結婚する。
仕事をしながら子供を産む。
最高じゃん……。
笑顔に耐え切れずに、起きようと決めて、目を開けて身体を少し動かした。
途端、背中が凍り付く。
慌てて股に手をやる。
流れている。
液体が流れてきている。
すぐに手を見た。
赤ではない、白だ。
慌ててベッドから飛び起きる。
「え!?」
はしたない恰好であることは分かっていたが、自分の股を見ずにはいられなかった。
「え………」
「………」
巽は煙草を手に持ったままこちらを見つめ、複雑な表情をして押し黙っている。
「え、え。なんで……」
言いながら涙があふれてすぐに流れた。
巽は慌てて煙草をクリスタルの灰皿に置くと、起き上がり、
「………」
肩に触れてくる。
反射の勢いでその手を払った。
「信じらんない……」
全裸であることを忘れて、両手で顔を覆った。
「先に説明しなくて、悪かった」
「何の説明よ!!」
睨みつけて言い放ったが、瞬きをする度に涙が溢れて出る。
「いつもこうだったの……?」
そんなはずない。自分がそんなこと、するはずない。
だけど……。
いいようにされているんだと思った。
そうだ、こんなお金持ちのイケメンが、ただの女を相手にするはずがない。
これが私の、魅力だったんだ。
「悪かった……」
心にその謝罪がずんと沈んだ。
妊娠したらしらん顔されるんだ。
結婚とか、指輪とか、
「昨日のことは、悪かった。だが、俺の話を聞いてほしい。俺はお前に話さないといけないことがある。
それは……俺の責任の話でもある」
涙で顔がむくみ、話がぼんやりとしか聞けない。
どうせふざけた説明をされるんだ。
絶対妊娠しないとか、そういうふざけた説明に決まっているんだ。
帰るまで待てなかった。
閉ざされた車内でただ、涙が溢れてくる。
誰に気遣うこともないせいで、嗚咽まで漏れる。
自ら宮下に提示した今日から出社したものの、その日のエレクトロニクスの売り場はまるで、別世界であった。
今まで通っていた東都シティとは違う。
5年後の、自分の知らない今であった。
初めて、自分が記憶を失くしたことを憎いと思った。
こんなとになったいきさつを呪った。
それすらも思い出せずにただ涙が溢れる。
新しい家電、それだけではない、接客の中での会話。それらすべてが怖かった。
何も知らない自分だけが、そこに取り残された気がして、製品の影に隠れるように立っているのがやっとだった。
記憶を取り戻したい。
記憶を戻して元に戻りたい!
初めて強く思った。
みんなが心配してくれていたわけが、ようやくわかった。
何故今まで自分が呑気にいたのか、不思議だった。
このまま運転を続けるのは危険と判断して、車をコンビニの駐車場の端に入れる。
鼻をすすり、榊に電話をかける。
だが、出ない。
仕事中なのかもしれないし、それ以外なのかもしれない。
溜息をつきながら、電話帳をスクロールさせる。
そうだ。思い出せないのなら、その医療的方法が本当にないのなら、周りに聞いて記憶を建て直せばいい。
佐伯、西野……。
宮下……。
巽……。
考えるのが嫌ですぐに発信ボタンを押した。
ディスプレイには、宮下と表示されている。
『お疲れ様』
「…………」
たくさんの言葉が頭に浮かぶのに、今本当に宮下に伝えなければならないことは何なのか、一瞬で分からなくなる。
『香月?』
「……はい」
『あぁ……、どうした? 今日初出社だっただろ。店長には朝連絡したんだけど、どうだった?』
「…………どうも、こうも……」
『やっぱりまだ早かったか?』
そうなのだろうか、これが、ひと月ふた月経てば変わってくるのだろうか。
「……、分かりません」
『…………どうだった?』
「会って、話を聞いてくれませんか?」
『……うーん、早い方がいいだろ?』
「はい」
『なら、電話が一番早い。悪い、今出て行く時間がないんだ』
「はい……」
宮下にも仕事はたくさんある。宮下は、宮下にしかできない仕事で溢れているに違いない。
『もうしばらく休むか?』
「……記憶が戻るまでってことですか?」
『…………、療養休暇は1年だから、期限はあるけど』
「…………」
『……何に一番引っかかった? 人間関係? 売り場の商品?』
「人間関係は、それほど……ただ、少しみんなが避けてる気はしましたけど」
『うん……』
「売り場の商品は全部そうです。そりゃそうですよね、5年も経ってるんだから……」
『うーん、無理にとは言わないけど。倉庫に行くか? あそこは荷受けなんかは全部1人だから。今の倉庫の子が上に上がれると思うから、交代できる。多分大丈夫だと思うけど』
「…………」
倉庫……悪い響きではない。
『まあ、とりあえず先にもう一回休もう』
「…………いえ、倉庫の案、なら大丈夫かもしれません」
『いや、無理はしてほしくない。とりあえず今月は休むようにしよう』
「いえ、待って下さい。明日はもう一度出社させて下さい」
『なら、倉庫で。だ』
「…………はい。それで……」
『まずそのシフトが組めるかどうか確認する。その上で復帰にしよう。焦るとよくない』
「はい……ありがとうございます。宮下店長……」
『……よし、じゃあまた連絡する。遅くなったらメールにするから』
「はい、大丈夫です」
宮下も随分仕事が精密になったような気がする。
そうだ、今は営業部長だ。店長と呼んでも何も反応しなかったが、気を遣ってくれていたに違いない。
大きな溜息が出た。
こんな時に慰めてくれる人がいればいいのに、と思う。
突然、さみしくてたまらなくなった。
巽に……会いたい……かもしれない。
あの、会食以来連絡は取っていない。何度か、電話がかかってきたが取れなかった時もあったし、折り返しの連絡もしていない。
今さらかけるのも、悪いかもしれないけど……。
ディスプレイを見つめる。
巽。
今、どこにいるんだろう。
通話ボタンを押そうとした瞬間、画面が切り替わり、バイブレーションで震えたので驚いた。とっさに通話ボタンを押してしまう。
「…………」
多岐川さん、と名前が出ている。どこの誰だろう。
「はい、もしもし」
『もしもし、私です。多岐川です。覚えていますか?』
どういう意味で言っているのかよく分からなくて、返事に困る。
「えっと……」
『記憶のことは聞きました。覚えてないかもしれないけど、私は結構お世話になったんです。仕事というよりは、プライベートで』
「えっ、あ、そうなんですか」
首を最大限かしげて考えてみるが、多岐川という女性がまるでヒットしない。プライベートでということは、社内ではないのだろう。
『で、ちょっとお渡ししたい物があるので、会えたらと思うんですけど。今どちらです? まだ店ですか?』
「えっと、今は仕事の帰りで。自宅の近くです。コンビニです」
渡したい物ということは、それなりに仲が良かったんだろう。何か、貸した物でもあったんだろうか。それとも、復帰祝いだろうか。
『ええと、どこですか?』
「南区です」
『えっと、どうしようかな。私今中央区なんです。良かったら、少しお話でもどうかな、と』
車内のデジタル時計は20時57分。今から中央区に行って話など、突然すぎると思うが、仕方ない。
「分かりました。そのまま中央区に向かいます」
『ありがとうございます!30分くらいですか?』
「そうですねえ……」
『駅ビルの中に美味しいイタリアンがあるので、良かったらそこで』
「分かりました」
全くそんな気分ではないが、仕方ない。
『突然ですみません。本当はもっと早く渡したかったんですが、なかなか電話もしにくい状況だったので』
「そう……だったかもしれません」
『じゃあ、待ってます』
車の中でもんもんと考え抜いたが結局、多岐川が何をしている人なのかも全く分からない。
その事を思うと、車を停車させた瞬間、一気に面倒になってくる。
記憶がなくなって、覚えていないことを一通り詫び、話を一から聞かなければいけない状況に内心うんざりする気持ちもあったが、渡したい物がプレゼントだった場合、最高に嬉しい結果になる。
そう思いついた途端、後者に確信をもってしまい、最後には半分笑顔で車を降りた。
「香月せんぱーい!お久しぶりですー」
全く見覚えがなく、しかも先輩と呼ばれてドキドキしながらなんとなく相槌を打つ。
「え、ああ……多岐川さん……」
綺麗なベージュのブレザーに少し花柄が入った可愛いスカートの多岐川は、本社の雰囲気が溢れていて、エレクトロニクスであることを確信した。
「そうです! 覚えてくれてましたか!?」
いや、そういうわけじゃないんだけど……。
何歳くらい年下なのだろう。25、6くらいな気はするが。
「いや、ごめん……あんまり……」
たどたどしいこちらに少し引いた多岐川だったが、それでも、半ば強引に前へ歩き始めた。
「あ、その、今日が初出社日だって宮下部長から聞いて、お電話したんです」
「ああ……」
そうだ、宮下部長だ……。ということはやっぱり……
「多岐川さんって本社……かな?」
「………」
無言で前へ進む多岐川に戸惑いながら、もう一度尋ねる。
「多岐川さんって本社にいるんですか?」
「……そうですよ。そのー……本当に忘れちゃったんですね」
「…………」
ぐさりとくる一言を言われて、声が出ない。
すぐに2人は店に入ると、案内された丸テーブルに2人で腰かけた。
彼女は慣れた様子でパスタディナーを2つ注文する。
突然のわりにコースなど、さすが本社の人間は違うと感心した矢先に、彼女は白い封筒を出してきた。
「…………」
コース料理に納得。
「これ……」
「私の結婚式の招待状です。その……香月先輩には出席してほしくって」
嬉しいやら、悲しいやら……。先ほどの一言がまだ胸に刺さったままで、あまり仲良くなれそうにないと思っていたのに……この封筒……。
「中央区に新しくできる結婚式場なんです! まだオープンしてないんですよ!」
「へえー……すごいね!!」
できるだけ、盛り上げる。
「相手は、附和物産の社員なんです! 実は、本社の近くで偶然知り合って。仲良くなって……」
「あぁ……」
附和……なんだっけ。聞いたことがある名前だったような気がするけど、まあ、関係ないだろう。
「それで、香月先輩には受付もお願いしたいなあって」
挨拶よりは、ましか、と、間髪入れず
「いいよ」
と、答えた。それくらい仲が良かったらしいのだから、仕方ない。
「あぁー、良かった。香月先輩に断られたらどうしようかと思いましたよー」
笑顔は素直だ。こちらもほっとして、水を飲む。
「ところで、今はどちらにお住まいなんです?」
「実家」
「前は確か、東京マンションに住んでましたよね。今でも四対さんとは仲いいんですか?」
多岐川が四対とも知り合いだという過去が見えないことに、戸惑いながら、
「うん……。まあ、連絡は取ったりしてるけど……」
「まあ、今さらですけど、私に四対さんを紹介した話とかも忘れちゃったんでしょうね」
「えっ!?!?」
そんなことあったんだ……。
「うわっ、本当に忘れてる」
多岐川は吐き捨てるように言ったが、すぐに運ばれてきたスープとサラダに目を輝かせた。
「……ごめんね、全然覚えてなくて」
謝るのも癪だが、謝る以外に方法が見当たらない。
「まあ、昔のことですから」
四対と多岐川……この2人が合うと思ったんだろうか、私は……。まあ、ある意味合うのかもしれない。
「で、香月先輩は彼氏とかはいないんですか? って変な質問かもしれませんけど」
記憶喪失のことを気遣って出た最後の言葉だろうが、全く持って余計だ。
「……いる……よ。
私も、結婚するかも」
勢いで出た言葉だが、多岐川は予想以上に反応した。
「嘘!! まさか四対さんじゃないですよね!!」
どういう真剣な眼差しかは知らないが、香月は胸を張って答えた。
「四対さんじゃないけど。でも、結婚式するなら、アベンティスト教会かなとは思ってるの」
と、確か巽は言ったはずだ。それを調べたわけではないので、ここにきて、一度ネットで調べておけばよかったと後悔する。
「え、どこです? 」
敢えて聞かれると、恥ずかしくなって答えづらいが、
「ロンドン」
と、なるべくさらりと答えた。
「あー……海外ですか……」
多岐川がしゅんとなるのを見た瞬間、時期花嫁を前に、いらぬ見栄を張ってしまったことを即後悔する。
「え、まさかとは思いますけど」
その彼女の表情があまりにも引きつったので、そのまさかが的中していないことをこちらも望み、同じように引きつる。
「附和物産の社長とかじゃないですよね。確か成瀬さんが、香月さんの知り合いだったような気がするって言ってましたけど、さすがにそれはないですよね」
あれ? 巽はなんという会社に勤めているんだろう……そういえば詳しく聞いたことがない。
「……」
答えに若干間が空くと、
「附和 薫じゃないですよね?」
名前が出て良かった。
「違うよー」
間を埋めるために、あえて語尾を伸ばす。
「でもどっかの社長とかですよね。香月さんのことだから」
その「ことだから」の意味が分からないが、そういえば巽はどこの会社に勤めているのだろう。言われてみれば、まるで社長のようなスーツを着ていた。
「うーん、まあそんなもんかなあ……」
「そういうの好きですよねえ。肩書で選ぶタイプですよねー」
「…………」
さすがに、言葉が出ない。
「ロンドンかぁ……。その時は私も呼んで下さいね。私、受付しますから」
多岐川の不思議な笑顔と別れて車に乗り込むと、目を閉じて首をぐるりと回した。
「ふー……」
溜息も出る。
結婚式の日にちはいつだったか、まだ先だろうけど休みとらなきゃともう一度封筒を開け、日を確認し直すと、来月になっていて驚いて二度見した。
なんでこんな急なのよ……って、私の記憶のせいか……。
そうか、今日の結婚式のことも私はあらかじめどこかで知ってはいたのかもしれない。だとすれば、多岐川からしても、同じ話を二度したことになる。
それを考えれば、まあ、会話は順調に進んだ方である。
まあ、良しとしよう。
そう締めくくりながら、携帯電話に巽の名前をすぐに出す。
ここから新東京マンションは少し時間がかかるし、自宅にいるかどうかも分からない。
耳に当てて三度目のコールを聞いた後、すぐに
『もしもし』
という、懐かしい低い声が聞こえて、一時言葉を失った。
「……」
『もしもし?』
「あ、うん。もしもし……」
『どうした?』
どう、と言われても……。
「いや……」
結婚の話をして、人恋しくなった。だけだ。
『どこにいる?』
「中央ビルの近く」
『迎えに行こう』
「ううん、車なの。自分の」
『買ったのか、運転できるのか?』
「うん……覚えてた。大丈夫だよ。小さい車だし」
『……会って話すか?』
「うん……そだね……」
『今風呂の途中だが、一時間でそこまで行ける』
「あそうなの……じゃあ私が行くよ」
『……』
「家まで行こうか。ナビで道分かるし」
『あぁ……』
「……お腹いっぱいだけど、喉渇いたから飲み物だけ買って行くよ」
『あぁ……』
「部屋何階?」
『最上階だ。マンションに入るには暗証番号が必要だから、着く前に電話してくれればいい。降りて行く』
「あうん……暗証番号なんてあるんだ。厳重だね。じゃあ今からコンビニ寄ってから行くから。ちょっとかかるかも」
『ああ……準備しておく』
着く前に電話をと言ったが、どうせ着いてから電話をかけてくるに、決まっている。
経験済みの巽は、不安半分、期待半分で自分をニュートラルに制しながら衣服を整え、エレベーターでロビーまで降りていた。
どういう風の吹き回しか知らないが、突然飲み物を買って自宅に来るなど何があったのか。だがしかし、悪い兆候ではない。
記憶が少しでも回復していればいいのだがと、半分溜息をつきつつも、にやけた顔を制しきれずにロビーのソファで腰かける。
すぐにカウンターの中のボーイがやってきて、
「巽様、いかがいたしましたでしょうか」
とマンションオーナーに問いかけて来る。
「いや、人を待っているだけだ。このままでいい」
「かしこまりました」
ボーイの行く先も見ず、ただガラス張りの窓だけ眺める。
その後、予定より10分以上遅れて黄色のワーゲンが姿を現す。巽はすぐにエントランスに行くと、ベルボーイに車を頼むよう話し、コンビニの袋を下げた愛を迎え入れた。
無言で手を差し伸べる。
「……え」
愛は立ち止まり、顔を見上げた。
「荷物を持とう」
「……ああ、ありがとう。瓶が重いの」
少し笑うと、素直に手提げを渡した。何やら、ビールに酎ハイにウィスキーと買い込んでいる。
「なんか、何飲もうか迷っちゃって。で、シフト変更で明日休みの連絡が入ったのもあるし」
愛はにこりと笑うと、扉が開いたエレベーターへと自ら乗り込む。
「えっとぉ、最上階って33階?」
「ああ」
扉は簡単に閉まる。
「ここって、すごいマンションですよねえ、門入る時迷いましたよ。ナビでは新東京マンションっってなってるけど、ホテルみたいだし、かといって名前が出てないし」
「マンションの名前を門に書く案、検討してみよう」
「………え?」
愛は訳が分からなさそうに、怪訝な笑いをした。
「ここのマンションは俺の持ち物だ」
「……えっ!?!?」
愛はどんな必要があるのか、狭い辺りをぐるりと見まわした。
タイミングよく、扉が開き、長い通路が見える。
「ここの……」
「そうだ。最上階は全て俺の住居エリアだ。ここから先は誰にも会うことがない」
「…………」
愛は黙ってエレベーターを降りる。その、黙り具合が気になって顔を見たが、悪い雰囲気ではなさそうだ。
「…………」
靴を脱ぎながらも広さに戸惑っているのが分かる。
巽は悲しさを捨てて、楽しめばいいと自分に言い聞かせ、先に部屋へ上がった。
「すっごい広いですね……うわー、家電も最新……」
「……そのハードディスクには何も入ってないがな」
「嘘!? 私が言いたいこと、分かります??」
愛は飛び上がるように喜んだ顔を見せたので、俺もつられてしまう。
「なんとなくな」
「えー、何も入ってないって。じゃぁなんでこんな容量が大きいの買ったんですかねえ……。まあ自由ですけど」
全く変わってないなと安心しながら、グラスをテーブルに並べていく。
「……何を飲む?」
俺は先にソファに腰かけて、バーボンをグラスに入れながら聞いた。
「えーっと、どうしよう。あんまり考えずに買ったから……」
という量と、時間ではない。
「お前は酎ハイを飲むつもりで、俺がウィスキーか何かを飲むつもりで買ってきたんだな」
「………分かります?」
お前の思考回路くらい……。
「お前は、俺が何を飲むのか詳しくは知らないからな」
「……なるほど」
おそらく、何にも納得はしていないだろうが、納得した振りをして隣に腰かけてきた。
予想通りオレンジの酎ハイを開けるとグラスに注ぐ。
「じゃあ、うーんっと、乾杯」
愛は勝手にグラスを合わせ、カチリと鳴らすと飲み始めた。
何を話したいことがあるのか、何時間でも黙って聞いているつもりだったが、予想通り愛は一口飲んだところで、口を開いた。
「アベンティスト教会って、約束してたんですか、私」
全てが勢いよく合致する。
「確定、とまではいかないが、候補には上がっていた。アベンティスト教会は有名だからな」
「そんなに有名なんですか?」
「……日本でどのくらい知られているかといえば、難しいが、ロンドンでは有名だ。有数の教会の一つではある」
「そこで、結婚式……披露宴?」
「友達を呼びたい、会社の人も、旅費は出したいと言っていたな」
「やっぱ結構決まってたんだ」
「全てはお前が言っていたことだが、それと同時に決まったことでもある。好きなようにすればいい」
「……それって何でも好きなようにすればいいって」
「いうことじゃない。大枠のロンドンで、式も、披露宴も、というところは俺の許容範囲という意味だ」
全てお前のいう通りに、と大きな事を言ってのけたいが、後で言い訳するわけにもいかないので、最善の策だけは立てておく。
「…………私、あなたのこと、好きだったかもしれない」
何の前後もない、唐突な一言に、思わずグラスが揺れた。
しかも、まだ酔っていないことだけは確かだ。
酒が服に少しだけこぼれる。
「分かんないけど、そんな気がする」
あまりにも真剣に見つめて言う一言。
「だからここにいるんだろうが」
苦笑をこらえきれないまま、肩を揺らして答えた。
「え、5年の間に結婚の話が出なかったんですか?」
「………出たさ、何度も。ただ、お互いの想いが結婚に向くタイミングが合わなかった。最初はお前が俺に結婚を懇願した」
巽はゆっくり、目を見つめながら、誤解のないように話を進めることに務める。
「だが、俺はその時は受けられなかった。しかし、しばらくしてその思いを受ける気になったんだ」
「………」
「しかしその時には、お前の中には結婚の文字が消えていた。仕事のことが中心になってきていたからな」
最後の一言は余計なつけたしだったような気がして、
「ただ、今は合っている。それは、間違いない」
と、念を押した。
「……5年……も付き合ったんだから、うまくいくかな……とか思うけど……」
「ああ」
「…………私ももう年いってるみたいだし……」
「…………」
子宮の事が当然のごとく頭によぎった。
だが、今出すべきかどうか最大限悩む。
「………結婚はいつでもできる。俺は、いつまででも待つつもりだ」
心を込めて、きちんと伝えておかなければと息を吸うのも忘れて言ったが愛は、
「やだよ。35までには結婚したいし」
思いがけない笑顔を見せて来る。
「今日さあ……あの子いくつなんだろう……。年下の後輩にさ、全く覚えてないのに結婚式の招待状もらっちゃってさ」
「呼べばいい。その部下も」
その一言で満面の笑みを浮かべた愛は、
「そうなんだけどね」。
変わらない。
「あ、そうだ。あのねえ。附和って人知ってるかな。その人の旦那さんが附和物産に勤めてる人らしいんだけど、そういえば入院中にその名前を聞いたような気がして……」
「ああ……」
巽は3秒考えて、
「俺の知人だ」
「え、その旦那さんが!?」
「いや、附和物産の社長だ」
「えーーーー!!! なんだっけ、名前、なんだっけ!?」
「附和 薫」
「うそー!!! えー、……嘘ぉ!! 私も知り合いなの??」
「ああ。入院したことは知らせてないしな。もともと俺を通じて面識がある程度だ」
「えー………うそぉ」
「何が嘘だ」
わけが分からず、可笑しくて苦笑した。
「あーそうだ。私、………」
そこで愛は何かを思い出したのか一時停止して。
「私、あなたの勤め先の名前知らないの」
「アクシアグループだ。 元は父親の会社を継いだ。クラブ、ホテル、マンション、その辺りを中心に手がけている」
「………あ、それでこのマンション……、え、ホテルも?」
「ディズニーランド付近にもある」
「えー!!!すっごい、いいとこ!!!」
そう叫ぶなり、愛は一時停止すると、
「私、どうやって知り合ったんだったっけ……」
「………とある客船の中だ。その時は顔見知り程度だったが、その後偶然ホテルで再会したんだ。確かお前は、ランチビュッフェをすっぽかされて時間を持て余してロビーにいたところだったと思う」
「絶対佐伯だ」
「………、そこでディズニーランドとシルクドソレイユのチケットがあるからやると言ったら、一緒に行こうと誘ってきたんだ」
「私から?」
「ああ。だが俺はあいにく当日仕事で行けなくなり、代わりに俺の秘書と行くことになった」
「わざわざ秘書の人手配してくれたんだね……」
「…………、その後食事して……という具合だな」
「うわあ……なんか、信じらんない。そもそも客船なんて、私何してたんだろ」
「……友人と旅行とでも言っていたような気がするが」
「それは佐伯じゃないや」
愛は笑いながら、グラスを置いた。
「なんか、嘘って感じ。信じらんない、こんなに素敵な人を見つけてたんだね……私……」
「……、そうだな」
俺はグラスを置いて、ソファの背に腕を回した。
丁度愛の背中らへんに腕が回り、ドキリとするのが後ろ姿で分かる。
慎重にいかねばならない。分かっているのにも関わらず、すぐに手が肩に伸びてしまった。
「え……」
その声を聞いて思い出し、ハッと手を離した。
「……触れてもいいか?」
愛のグラスに手をやる。
「えっと……」
それでも、そのグラスを手渡してくれたので、ここぞとばかりに抱きしめた。
高揚して、興奮が先に立つ。角度を変え、強さを変え、何度も何度も抱きしめ直す。
愛も、それに嫌がる風もなく、ただ静かに受け入れてくれる。
その匂いが。
その柔らかさが。
その全てが。
全て俺の物なんだと、隙間なく腕に包み込んでいく。
到底我慢などできそうにない。
このまま最後までいき果てたい。
「……………」
慎重に、今度こそ慎重に、先を見据える。
「…………明日は指輪を買いに行こう……。結婚指輪だけでなく、すぐできるようにペアリングも買えばいい」
愛は何も言わなかったが、そのままキスをする。
予想通り、抵抗はない。
目を開けた。巽は腕枕をしたままで、携帯電話を見つめ、その合間に煙草をふかしている。
目を閉じ、もう一度思う。
私、めちゃくちゃ良い人見つけてたんだ……。
昨夜は感じたことのないほどの快感と、絶頂と、疲労を繰り返し、何がどうだったのかあまり覚えていない。
ただ時折、「愛している」と耳元で囁かれ、知り尽くしたように身体を扱われて、好きにならないわけがない。
めちゃくちゃ最高じゃん……。
まだ疲労がとれず、目を閉じたままで笑顔になる。
煙草の匂いも気にならず、むしろ恰好良いと思えた。
このまま結婚する。
仕事をしながら子供を産む。
最高じゃん……。
笑顔に耐え切れずに、起きようと決めて、目を開けて身体を少し動かした。
途端、背中が凍り付く。
慌てて股に手をやる。
流れている。
液体が流れてきている。
すぐに手を見た。
赤ではない、白だ。
慌ててベッドから飛び起きる。
「え!?」
はしたない恰好であることは分かっていたが、自分の股を見ずにはいられなかった。
「え………」
「………」
巽は煙草を手に持ったままこちらを見つめ、複雑な表情をして押し黙っている。
「え、え。なんで……」
言いながら涙があふれてすぐに流れた。
巽は慌てて煙草をクリスタルの灰皿に置くと、起き上がり、
「………」
肩に触れてくる。
反射の勢いでその手を払った。
「信じらんない……」
全裸であることを忘れて、両手で顔を覆った。
「先に説明しなくて、悪かった」
「何の説明よ!!」
睨みつけて言い放ったが、瞬きをする度に涙が溢れて出る。
「いつもこうだったの……?」
そんなはずない。自分がそんなこと、するはずない。
だけど……。
いいようにされているんだと思った。
そうだ、こんなお金持ちのイケメンが、ただの女を相手にするはずがない。
これが私の、魅力だったんだ。
「悪かった……」
心にその謝罪がずんと沈んだ。
妊娠したらしらん顔されるんだ。
結婚とか、指輪とか、
「昨日のことは、悪かった。だが、俺の話を聞いてほしい。俺はお前に話さないといけないことがある。
それは……俺の責任の話でもある」
涙で顔がむくみ、話がぼんやりとしか聞けない。
どうせふざけた説明をされるんだ。
絶対妊娠しないとか、そういうふざけた説明に決まっているんだ。