絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅴ
2月9日

巽 光路(たつみ こうじ)は、束の間の休憩をしながら、自社ビルの最上階からの夜景を見つめて思う。あと30分だけして帰ろう。帰りには電話をかけよう。今日は絶対にそう決めている。

 数年前までは、とあることで、穴が開き、父親から譲り受けた仕事がなかなか思うようにいかず、もがき続けて苦しかった。だが今は完全に軌道に乗り、自分がいなくてもうまく進めるくらいになっている。

 深くつきつめれば、愛がその仕事の忙しさの犠牲になったと言える。会う時間どころか、話す時間もままならなかった。今になれば分かること……。

 だが、今さら、考えたって仕方のない。

 今日でも仕事を片付けて、帰れば日付が変わる。起きていればいいんだがと思いながら、夕方の愛からのメールを思い出していた。

「人事異動が出たの。また話すね」

と。

 事故に遭い、記憶がなくなったことにより、彼女は随分変わった。しかし、良い意味で変わったと思う。昔は随分無茶をしていた。それが全て消えたかのようだ。

 そういう意味では普通の、ありきたりな退屈な女性になってしまったのかもしれない。

 だが、愛するのに刺激を欲しているわけではないし、ただ、俺の相手をしてくれているのなら、もう何でも構わないと思う。今なら少々浮気されても、許せるような気さえする。

 それくらい、愛を持った優しい気持ちでみられるようになった。

 だが逆に、愛自身はどうなのだろう。見守ることを、物足りなく感じてはいないだろうか。

 メール、電話、食事。間が空かないように続けてはいるが、身体の関係がない分確証がないように思う。そばにいるだけで、電話をしているだけで抱きたくなるのに、拒まれて、手を出すことすらできない。

 やはりたまには、昔を思い出し、心溺れるようなシーンも必要なのかもしれない。

 取り急ぎ、メールだけしておこうか……。

 いや、それなら早く仕事を切り上げて今すぐにでも連絡をした方がいい。



 なんとか、23時半に電話をすることに、成功した。このまま会う話になっても、十分時間はある。

 残業が重なった時は帰宅が0時を越えることもあるようだが、今日は人事の話を聞いたせいで早く帰っているだろう、もう寝ている可能性も高い。

 そう思いながらも期待を隠しきれずに電話をかける。

 と、コール音を聞かずにそのまま電話がつながる。どうやら携帯を手にしていたようだ。

『あっ、もしもし?』

「……起きていたか……」

『うん。ちょぅどメールしてて』

「……今帰りだ」

『今日は早いんだね』

「ああ……」

 いつでも行ける準備はある。

『メールでも話したけど、今日内示があってね。チーフに上がるって話だったの。しかも倉庫の、ももうびっくり』

「良かったじゃないか。迷っているわけじゃなさそうだな」

『うん。迷うも何も……あそこは階級制だから、本当に逆らえないって感じ』

「仕事というのはたいていそういうものだ」

『まあねー……』

 機嫌はよさそうだ。

『でね、店を増築するんだけど、その前にまとめて休みがとれるみたいなの。お盆明け』

「旅行にでも行くか?」

 間髪入れずに誘っておく。

『……海外には行きたいとは思ってるけど……でも、本当に休みとれるかどうかは分かんないし。お盆なんてまだ先だし』

「休みは合わせよう」

『…………、ありがとう。行けたら、いいね……』

 仕事のことが頭を巡っているのか、今はそれどころではなさそうだ。あまり、邪魔はしたくない。

 巽は物分かりが良いふりをして、早々に電話を切った。

 テーブルの上には、前回愛が買いそろえた酒がほどよく並べられている。
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