絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅴ
4月5日

附和 薫は、高級車の窓の外を見ながら、鼻歌を歌った。

「……店では香月様を呼ばれますか?」

 全てを知り尽くした秘書が、運転席から声をかけてくる。

「当然。何のための鼻歌なのさ」

 フフン、と更に続ける。

 本日、附和物産株式会社の専務、つまり、附和物産社長の長男、附和 薫は、去年、グループの傘下に着いたリバティの社員に、香月 愛がいることを知り、いてもたってもいられなくなったのだった。

 なんだかんだで忙しく時が過ぎてしまい、会うのは1年ぶり以上になる。

 傘下にいると知った瞬間、最短の日にちで店に直接出向き、驚かしてやろうと決めた。

 それでも、予定を組んでからひと月も経ってしまった。

 その間に、どこかで偶然ばったり会ったら、面白味にかけると思っていたがその心配をよそに会うことはなく、本日は、香月のシフトまで確認して、仕事の合間に押しかけることに決めたのである。

 そりゃあもう、驚く顔が見たくて。

「着きました」

 秘書を待たずして、自ら車を降り、自動ドアを潜り抜ける。

 仕事の合間といっても、一応傘下の視察ということも兼ねているので、数人お供がいるが、それはそれとして、香月を探す。

「広くてわかんないなあ……」

 こちらが到着することは、数日前にも数時間前にも、店舗マネージャーには連絡がいっていたようで、すぐに数人の出迎えが来る。

 マネージャーを始め、本社の副社長、営業部長、総出だ。

「専務、どういたしましょうか? 呼び出してもらいましょぅか?」 

 秘書が小声で聞く。

「うん。上まで探し回るわけにいかないし、来てるのが確かなら呼べば来るだろ」

 秘書が段取りをしている間、店内を視察する。隣に位置した副社長が年の割に男前なのが少し気にくわなかったが、まあ、香月の好みではなさそうなので許しておく。

「すぐ来ます。少々お待ちください」

 秘書の声に反応せず、そのまま心を落ち着ける。

 隣で副社長が延々話をしているが、それには乗らず、ただ店内をぐるりと見渡した。

 ここで、働いているのか。キャバ嬢から抜けて、エレクトロ二クスに戻ったことはもちろん知っていたが、何故あの会社を辞めるに至ったのか。

 教えてくれてもよさそうな内容でも、簡単に教えないのが、彼女だ。その答えにたどり着くには、まだ時間がかかるだろう。

「お待たせ致しました」

 目をぱちくりさせた彼女が縮こまって登場する。

 附和は、一気に笑みを漏らした。

「驚いたでしょ」

 嬉しさのあまり、つい、いじめたくなる。

 白いブラウスに、黒のパンツスタイルが清潔感の塊のようで、そそる以外の何者でもない。つい、透けてはいないかと、肩を見つめたが、ブラ紐は確認できず、惜しい気持ちもにもなる。

「フフフフフ」

 附和は俯いて笑った。

「…………」

 香月は何も言わない。忙しいところを呼び出されて怒っているのではないかと、ひょっと顔を見た。

「………」

 ダメだ。これは、随分怒っている。

「あぁ、ごめん。忙しいところを、いや、近くまで来たからついね。仕事がてら」

 全て嘘だが、そういわねばならないほど、相手はこちらに表情を見せない。

 自分が空回りしていることに気づき、ようやく隣の副社長の若干不安気な顔が目に入り始めた。

「え、えーっと……いや、久しぶりに……」

「あの、その、すみません、間違ってたらすみませんがその、あなたは附和薫さんという方ですか?」


「は?」

 ネームプレートは香月愛だ。いや、そんなこと、この顔を見ればすぐに分かる。

「あ、あの、違ってたらすみません」

 彼女は慌てて手を振る。様子がおかしいことに、ようやく気がついた。

「いや、そうだけど……」

 附和は、固まる。

 彼女が言いたいことが、全く分からない。

「附和、さん、のお名前は聞いてはいたんですが……」

 誰から……。それを聞く前に、ふっとよぎって名刺を出すことを思いついた。

「……すみません……」

 まるで他人行儀でその名刺を手に取った彼女は、表を見、そして裏も確認した。

 裏には会社の電話番号がずらりと並んでいる。

「巽さんの…、お知り合いの方ですか?」

「え、何言ってんの?」

「ち、違ってたらすみません!!」

 今度は更に大きく一歩引いて、顔の前で再び手を振ったので、わけが分からず、

「悪い、2人だけにしてくれ」

 その言葉をすぐに聞き取った秘書は、隣に控えていた副社長や営業部長をすぐに遠ざける。

「何? どういうこと? 香月、愛だよね?」

 附和が先に確認した。

「はい……。あなたのことは、巽さんから話を聞いています」

「いますったって……」

「私、1年前に階段から転落して、記憶を少し失くしてしまったんです。だから」

「え!? き、記憶喪失?」

 飛び上がるほど驚いた。呼吸が乱れる。

「……はい……記憶が、また戻るかもしれないとは言われてるんですけど……」

「そ……え? 僕こと、覚えてないの?」

「すみません……」

 彼女は本当に申し訳なさそうに、俯いたまま、名刺を見つめた。そしてもう一度裏を見る。

「………、巽のことは? 巽とはどうなったの?」

「覚えていませんでした。だから、色々話は聞いたんです。だから、附和さんという方と知り合いだだということも、分かっていました。でも、顔が分からなかったので……。でも、さっき、附和さんという方が来ていると聞いた時、そうかもしれないと思いました。附和物産の専務の方だということも、聞いていたので」

「で、巽とは?」

 附和は先を急ぐ。

「……とは、というと……」

 彼女はようやくこちらの目を見た。その美しい顔に、附和は全てを賭ける。

「付き合ってるの?」

「…………、今は、そういう関係ではありません」

 彼女は言い切る。

 同時に附和は、脱力した。

 ただ、香月の顔を見つめる。

 そのまま、言葉が出ず、長い時間が経ってしまう。

「名刺、貸して」

 ようやく動いた附和は、香月に渡した名刺を再び手に取ると、裏に電話番号を書いた。

 すぐに手渡す。

「少し、話がしたいけど」

「…………」

 香月の顔はこわばっている。

「……怖い、話でしょぅか?」

 その意味が何なのかすぐに分からなかったが、何かを警戒しているということだけは伝わったので、附和はあえてすぐに笑い飛ばした。

「僕は君が笑いたくなるためにしか存在してないから、大丈夫。何も心配なんかいらない」





 仕事を始めてから15年以上になるが、今日のこれほど考え込んだことはない。

 勝己は帰宅途中愛車のベンツを運転しながら、もう一度じっくりと考え直していた。

 附和専務が店に視察に来ると連絡があったのが一週間前。その時、その日のシフトも出すようにと同時に言われた。ほんの数分の視察にそこまで目を光らせるのかと本社でも驚いていたが、おそらくそうではなかったと思う。

 香月愛を呼ぶように指示した事。

 馴れ馴れしい附和専務に対して、他人行儀な香月の会話。

 会話を実際に聞いていたのは、吉村副社長だが、結論から言えばどうも附和専務は香月の記憶がなくなったことを知らなかったようだが、それなりの関係があったらしいということだ。

 それなりの関係がありながらも、その仲が続いていたわけではない……男女の関係……としか考えられない。

 昔の恋人……だろうが、どこからか香月が入社したことを知って店に視察に来た……。

 だから最後の

「香月愛は丁重に扱え」

の一言に収まるのだろう。

 生き別れた妹説をとして美談で切り上げた吉村も、単に口からのでまかせだろうし。

 同席した営業部長の宮下は、プライベートなことは知らないの一点張りだった。

 そんなはずはないと、吉村も思っているのは伝わってきた。

 宮下を追いかけるようにして入社した香月だ。それなりにプライベートなことは知っていてもよさそうだと思うが……情報を得たいと思うが故に、見誤ってしまっただけだろうか。

 15分のドライブはすぐに終わり、家に入る。

 高層マンションは飽きたから家を買ったのに、またマンションに住んでしまうとは、とエレベーターを面倒に思いながら乗り込む。

 美月が庭の手入れが面倒だというのも分かるには分かるが、それよりも、エレベーターに乗る方がはるかに面倒に感じたのは自分だけだったから仕方ない。

 エレベーターを降り、すぐ隣のドアを開けて中に入る。

「おかえり」

 小声で出迎えてくれた美月は子供を寝かせ、既にパジャマ姿であった。

「あぁ……」

 どっと疲れがこみ上げてくる。スーツを順に脱ぎ、まず風呂に入ろうとする。

「あのさぁ、マンションの役の会合のことなんだけど」

 言いかけた美月に、

「うん。後で見るよ」

と、柔らかく切り上げ、先に入ってしまう。

 シャワーを浴び、湯舟に浸かって考えを一通り組み立ててから出る。

 美月は既に会合のことは後日にしようとあきらめたようで、リビングに食事の用意を完璧にし仕上げていた。

「はあ……」

 ビールを飲んで、ようやく頭が回り始める気がする。

「今日、出社だった?」

 妻のシフトを知らないわけではないが、自分が出社してから、妻が出社し、退社してから、自分が帰宅するので、はっきりとどうだったかはよくよく気にしていないと分からない。

「だったよ。見かけたけど」 

 美月はいたずらに微笑んでくる。既に30を超えたが、素顔でも十分綺麗なところを見ると、結婚して良かったなと心底思う。

「今日は大変だったわよね。附和物産の専務が来てたんだって? 後から聞いてめちゃくちゃびっくりしたんだけど」


 そういう内部事情は夫婦ということを意識して、あまり言わないようにしている。が、美月はそれを責めているわけではない。

「あぁ。……一通り見て回った後、香月と話してた」

「え、何?? なんか商品のこと??」

「いや……知り合いという感じだったと思う。聞いても何も答えなかったけど」

「えーーーー、附和物産の専務と!?!? ………親戚か何か?」

「いや、それよりは男女の関係のようだった」

「嘘!!!」

 美月に完全に火がついた。

「うそー……、嘘。私、顔見てないわ。どんな人?」

「グーグルで検索したら出てくると思うよ」

「そっか、そっか……えー、なんか彼氏の話とかしたんだけどさあ、その話は出なかったなあ…って…。え、春野チーフ似じゃないよね?」

 携帯電話を即座に用意し、画面を見つめる。

「……何が?」

 美月はすぐに自らの携帯で、附和専務の顔を調べ上げた。

「あー、全然違うわね。んー、イケメン社長!って感じ。社長じゃないけど。え、どんな風だった? どんな風だった??」

「俺は少し離れたところから見てたからあんまり分からなかったけど、副社長が言うには、記憶喪失のことを知らないようだった、ということだ」

「えー、じゃあ、せっかく再会したのにあなたは誰状態?」

「まあそうだな」

「私さあ、愛ちゃんが記憶喪失のこと言わないからさあ……。私も知らないふりしてて」

「その方がいい。そのことは、簡単に他言していいことじゃない」

 香月と食事に行くという話をしていたので、仲が円滑になるように、記憶喪失の話を一応したが、従業員のプライベートな情報を簡単に外には漏らすわけにいはかないことを、今一度念を押しておく。

「いつか仲良くなったら言ってくれるかなあって思ったり」

「……そうだな……」

「そのことについて何か話したことある?」

「いいや」

「でも、附和物産の専務には自分から言ったのかなあ」

「いや……途中から人払いして話してたからそこまでは何とも……」

「……謎だよね。愛ちゃん。すごく仕事はするけど、なんかちょっと内心どう思ってるんだろうなって思う時がある」

「……まあ、みんなそんなもんだろ」

「そうだけどぉ……。でも、聞いてみていいかな。附和物産の専務とどういう関係だったのかって。話してたとこを見た人って何人もいるんでしょ?」

「あぁ。一階の世界の食品コーナー付近だった」

 ビールを飲んでしまい、溜息をつく。ここら辺は美月に任せて、少し情報が得られれば、と期待を持って。
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