絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅴ
 昨日、附和薫に突き付けられた最後の一言、

「香月愛を丁重に扱うように」

をどうとらえるべきか、そして、その言葉に対する最適の行動とは何なのかをずっと考えていた副社長、吉村達也は、結局考えあぐねて、数時間前から考えることを放棄してしまっていた。

 一応の結論としては出ていて、おそらく、今すぐしなければならないことではない。だが、何かあった時は、迅速な対応をするように、ということでいいのだ、と思う。

 そう、思うには思うのだが、傘下に入ってすぐの親会社の、しかも次期社長と言われている専務という立場が非常に重い。

 それが何かの時、きっかけになるというか、引き金になったらおしまいかもしれない。

 昨年社長が変わる前は経営不振が続き大変だったが、傘下に入り、社長が変わったことでようやく落ち着いていられるようになった。この、附和物産の傘下に収まっていれば退職するまではなんとかなるだろう。

 それが、「香月愛を丁重に扱うように」の一言にかかっているのだとしたら……。

 急に落ち着いて座っていられなくなり、副社長室を出る。

「ああぁ、九条君」

 専務の九条が偶然にも廊下を歩いて部屋へ帰ろうとしていた。

 そうだ、こういう難問の時は、頭の回る九条の意見も聞くに限る。

「社長は今日いるのかな?」

「います」

「……、……」

 ふと、思い当たる。営業部長の宮下は香月のことをよく知っているはずだ。昨日の帰り、プライベートは知らないの一点張りだったが、2人きりだと何か話すかもしれない。

「どうかしましたか?」

 不審に思った九条がさりげなく聞いてくるが、

「いや……。いや、その、後で話があるんだ。社長にも。でもその前に宮下君と話をしてからだ」

 言い切って、営業部へと急ぐ。

「私は午後からはいませんが……」

 大き目の声が後ろから聞こえ、

「たぶん午前中に話ができるから!」

と、言い返してエレベーターに乗り込んだ。




 この時期の営業部がどうだとか、今はそんなことは後回しだ。

 事の内容に重大性を見出してしまった吉村は、

「宮下君」

 すぐさま部長を呼びつけた。

「なんでしょう」

 小走りで寄って来るので、こちらも急いで会議室へと促す。

 何事かという表情を見せた宮下か、それでも落ち着いて話をしようと後ろ手で扉を閉めた。

「昨日の話だが」

 その目が一瞬変わったのを吉村は見逃さなかった。

「昨日、宮下君にも言ったと思うが、附和専務の『香月愛を丁重に扱え』の一言にはどういうい意味が隠されているのか、という話だ」

「……私には、さっぱり」

 目を閉じて首を振る。

「……今まで香月愛には何か……そういうことはあったのか?」

「そういうこと、というのは?」

 言葉を選んでいるのか、どうなのか。

「君も知っている通り、附和物産の傘下に入ったうちは、今まで以上の伸びを見せることができている。これでしばらくは安泰だろう。いや、右肩上がりかもしれない。

 そんな中で、今、次期社長ともいわれている附和専務がうちの会社の一女性に好意を抱いていいるということは、わりと大きな問題だと思ったんだが、宮下君はどうかね?」

「………」

 少し口元が緩んだ気がした。

「……彼女は……そういう星の元に生まれたような女性なんです」

「というと?」

「次々に男性が言い寄ってきて、終いがつかない。附和専務もその1人ではないかと、私は感じました」

「相手にはしない、ということか……」

「……それは、分かりかねますが」

「…………、君は正直その言葉をどう思った? あの時、あの様子を見て、最後のあの一言を実実際どう感じた?」

「手を出すな、ということ、ですかね。もちろん、セクハラやパワハラをするな、ということもあるでしょうけど。単純にそうだと思いました」

「…………、…………」

 あまりに難しく考えすぎていた気がして、それほど単純な答えがあったのかと気が抜けたくらいだった。

「親会社の専務の一言となると、大きな意味を持ちます。でも僕は、単純にそうだと思いました」

「附和専務と今まで親密にしているところを、見たことはあったのか?」

 それは昨日も聞いた質問だった。

「ないです。私は、知りません」

「…………、それらしき人物。例えば、弟の方なんかは?」

「いいや……。ただ……あえて言うのなら、彼女は四対財閥の社長とかなり親しいはずです」

 とんでもない名前を出されて、度肝を抜いた。

「えぇ!? あの若い……」

 面識などあるはずはないが、まだ20代半ばのイケメンだの敏腕だのとメディアではよく話題になっている。就任直後からいや、その前からかなり有名な人物だ。

「はい……。私は直接彼女から聞いたわけではありませんが、四対財閥の社長を紹介してくれと、エレクトロニクスの女性社員に頼まれて、したそうです。結局うまくはいかなかったようですが、その時の様子を聞く限りでは、四対社長も香月に入れ込んでいるのかもしれません」

「えぇ……どこでそんな、知り合いに……。確か、父親が総合病院の医院長だとか言っていたが、そこか?」

「いえ……あまりプライベートなことを言い合うのは好きではありませんが、言って彼女の味味方になってほしいと思って言いますが」

「むろん、そのつもりだ」

 そのつもりでなければ、この先は聞けない気がした。

「彼女の元彼氏が実業家でした。そこからのツテだと思います」

「なるほど……」

 全て、納得だ。

「その、彼氏の名前は? まさかそこもすごいヤツじゃないだろうな」

「そこまでは。……分かりません」

 知っていて言わないのだろう。そんな気がした。まあいい。

「四対に附和に……」

「日本の中心になろうかという人物とここまでコンタクトが取れるのは、彼女しかいないのかもしれません。ただ、それが故の、『丁重に』というよりは、単純に好きだから、という方が私はしっくりきますが」

「……附和専務自体が大物だからな……。よく言ってくれた。昨日の大勢の前では言いにくかったな」

 とは言っても、勝己がいるかいないかだけの差だが。

「私も一晩考えました。その上でこれは重要事項だと判断した、結果です」





 吉村は営業部を出た足で、九条専務の部屋を叩き、次に社長室に乗り込んだ。

「あぁ、ちょうど昨日の話を聞こうと思っていたところです」

 附和物産から引き抜かれてきた新社長、浦川は応接椅子に腰かけながら、にこやかに話しを開始した。まだ35そこそこの若造だが、経営のセンスは抜群で尊敬せざるを得ない人物だ。

 インテリメガネがきらりと光り、髪をきちんと分けた風貌はいかにもできる男らしく、しかも、嫌味がない分とっつきやすかった。

 3人は対面して応接セットに腰を下ろす。

 吉村はすぐに話を切り出した。

「昨日の附和専務の視察は、店舗視察というよりは、香月愛という女性従業員に会いに来たようでした。倉庫のチーフです」

「あぁ、エレクトロニクスから来た……」

 その、紛れもない特徴が故に香月は目立つ存在だ。

「そうです」

 目の前の浦川の言葉に、吉村は頷いた。隣で九条が、静かに話を聞いている。

「個人的な知り合いだったようです。附和専務は随分親し気に話かけていきましたが、彼女は記憶喪失のせいで全く覚えていないようでした。そこで、附和専務は、人払いをして2人で話した後、帰ったわけですが、帰り際に、『香月愛は丁重に扱うように』と言い残して帰ったのです。

 後で彼女に、どういう関係だったのか聞きましたが、プライベートなことだからと口を開きませんでしたが、今日宮下部長に確認したところ、附和専務のことは分かりかねるが、四対社長とはかなり親しいはずだと言っていました。

 だから、附和専務との関係があってもおかしくはありません……、とはいっても、深い男女関係かどうかまでは分かりかねますが」

 一気にまくしたてた吉村は、そこでようやく一旦区切り、

「で、『香月愛は丁重に扱うように』の一言が気になりまして。今すぐどうこうする必要はないと思うんですが、何かあった時に即座に動いた方がいいかと思われます……。それは全従業員同じなんですが、特に……目をつけておく必要があるかと」

 そして、浦川を見てふと気づいたので続けた。

「しかし、それが附和専務のいつものこと、ならあまり気にする必要もないと思うのですが」

 無意識にじろりと、浦川を見た。

 附和専務の事情は、我々よりは随分承知のはずである。よく考えれば、一見軽そうにも見えなくはない、あのイケメン独身附和専務の、これがいつものことなら、さほど気にすることはないのだ。

「……私は、附和専務のそういう浮いた話は一度も聞いたことがありません」

 それは、にわかには信じがたい気がした。

「……独身ですがね……」

 吉村は目を逸らして対抗した。

「……、女性誌などに出て騒がれたりはしていますが……、実際のところお付き合いしている女性はそれはいるとは思いますが、社員に手を出したり……ましてや、子会社の一従業員を相手にするなんて考えられません」

「では、どういう……」

「つまり」

 浦川は、それらしく前を見据えて言った。

「それほどの重要人物、ということではないでしょうか。四対社長とも仲が良いとなればなおのことです。ただ、そのほどの人物とエレクトロニクスからうちへ来た一般社員の彼女の接点は何だったのか気になりますが……」

「それは、宮下部長に聞いたところによると、彼女の元彼氏が実業家だったようで、そのツテだろうと言っていました。つまり、男女の関係、ですかね……」

「…………さあ、どうでしょう」

 わりと考え込んでいた吉村に対し、聞いた浦川はどうでも良いとばかりに、さらりと言い放つ。

「ただ、親会社の専務の意見は些細な事でも聞き入れておく必要があります。

 彼女のことを、そういう意味で気にしておく人物がいるべきだと思います」

 吉村は間髪入れずに提案する。

「九条専務が適任だと思います」

 九条の視線を感じたが、浦川の方から目を逸らさない。

「そうですね……」

 浦川も自分よりは、九条の方が向いていると感じていたようだ。

 当の九条は

「……そう……ですか」

と、何やら考えている様子である。面倒なことに巻き込まれたということは、間違いなく感じているだろう。

 香月愛が美人だという点においては、彼女と関わりたいとは思うが、そこに附和専務が絡んでくると、さすがに恐ろしい。ここは、そういうことをあまり顔に出さない優男の九条がぴったりなのだ。





 なんだか面倒な事を引き受けさせられたと即座に感じた九条 優作(くじょう ゆうさく)はは、すぐに人事部に行き、香月愛の履歴書を確認した。

 エレクトロニクスの社員が宮下を慕ってきたという時点で名前と美人だという顔はなんとなく覚えていたが、こうやって世話をするとなると、もう一度顔を見ておかなければと思い至ったののである。

 履歴書の写真にしては女優のように綺麗に映っているし、経歴も特に不可解なところはない。

 5年間の記憶がないということは、備考欄には書かれているが、それは面接審査で特に問題ににはならなかったと記載されている。

 自宅は勤務店から車で5分のワンルームマンションか。

 今度は自室に戻り、自らのスケジュールを確認してから、勝己のシフトをパソコンで確認し、電話をかける。

 今日は勝己は出社になっている。香月のシフトも出社になっているが念のため確認しておきたかった。 

 すぐに電話は繋がり、香月が22時まで出勤していることを確認し、21時半頃行くと伝える。

 勝己の声が緊張したのが分かった。附和専務に、俺にとなると、さすがに気が重いのだろう。

 そして予定通り、20時に退社する。本社から自宅までは1時間かかるが今日はそれを越えて、30分先の北店まで行かなければならない。


 さて、何をどうしようか、本人とはどこまで話込めばいいのかと考えながら、到着する。

 予定通りの午後21時半に従業員駐車場に到着するなり、勝己が寄って来た。

「お疲れ様です」

 すぐに車から降りて、

「お疲れ様。電話でも話した通り、昨日のことを確認したくてね……。

 今日社長と協議した結果、香月愛に何かあった時には即座に対応するように言われた。ただ、普段はいつも通りにしていていい。
 
 間違っても、恋愛感情は抱くな」

 勝己は視線を逸らし、

「はい……」

 考えているようだ。

「特に、意味はないし、それくらいしかできないということだよ」

 九条はその肩をぽんと叩く。恋愛感情への念押しだ。

「一応私がその責任を担う形になった。今日も少し話をしておこうと思ってね」

「はい……。

 昨日も私は驚きましたが……。

 家でよく考えてみたら、その、附和専務の真剣な眼差しといったらなかったような気がしました。しかも、昨日の帰りに迎えに来ていたようなんです」

「え? 附和専務が?」

「専務本人ではないかもしれませんが……。

 昨日の帰り、退社する頃に黒塗りのセルシオがいたようで、そこから出てきたスーツの男に促されて香月本人が乗り込んで行ったようなんです。それを見た者が私に伝えてくれたので、朝本人にも確認しましたが、『退社後のことなので』としか言わず」

「流れからしたら、附和専務の使いの者という感じだった、ということか……」

「私はそう感じましたが」

「いや……どうかな。彼女は四対財閥の社長とも親しいらしいから、そっちかも」

「……四対……財閥ですか?」

 勝己はあまりピンとはこないらしい。

「四対財閥は実権は会長の母親が持っているが、もうある程度は息子の物だ……。そんなことに、うちの会社が巻き込まれるようなことはないとは思うが、その、親しい具合がどれほどまでなのか分からないだけに、今は気になる」

「そうですね」

 勝己は即答した。

「彼女は仕事はよくします。人付き合いもうまくしているし、業務に関しては何の問題もありません」

「……少し話をして行くよ」

 九条は先に歩き始めた。

 倉庫へは正面玄関を通らずとも、倉庫用の入り口から入れる。

「あ、もう倉庫用の入り口は鍵がかかっていますから、私もご一緒します」

「中に人はいないのか?」

 中から開錠できるはずだ。

「いるでしょうけど、私も鍵を持ってますから」

 あまり勝己の時間を割きたくないがためにそう言ったが、受け入れられなかったらしいことを少々残念に思いながら、鍵を開けてもらう。

 いた。

 こちらを驚いた顔で見ている。

 遠目でも分かる。これは、数々の大物達が寄ってたかるのも無理はない。

「九条専務だ」

 勝己が先に紹介してくれるのを聞きながら、香月はデスクから立ち上がると、小走りで走り寄り、すぐに頭を深く下げた。

「お疲れ様です」

 その、行儀正しく、素直で従順なところと、この外見ときたら、たまらなかったのかもしれない。

「お連れ様。……今は……1人?」

 見渡す限り、誰もいない。

「いえ、22時までは2人です。今はちょっと倉庫に。呼んできましょぅか?」

「ああ……いい。君は、22時までだね?」

 ここぞとばかりに、その美しい顔を見つめた。

 年齢は31歳。いや、それより5つは若く見える。

「あ、はい」

「少し、話がしたいんだが」

 腕時計を見た。時刻は既に21時50分に差差し掛かろうとしている。

「会議室を20分ほど使わせてもらおうか」

 誰ともなしに言った瞬間、香月の視線が下に落ちた。勝己はもちろん

「開いています」

 即答する。





「まあ、座って」

 長机とパイプ椅子しかない簡素な部屋で始める。

 あまり重要な話ではないだけに、この堅苦しい雰囲気を打破したかったが、適当な話題も思いつかない。

 香月は随分緊張したように、椅子に浅く腰掛け、身体を縮込めた。

「君の仕事ぶりは素晴らしいと勝己マネージャーが称賛していたよ」

「本当ですか!?」

 一気に身体を緩め、パッと花開いたように、輝かしい笑顔を向けてくる。

 その、瞬く瞳に吸い込まれそうになるところを、ギリギリで制して、「本当ですか」の一言をもう一度頭に巡らせた。

「そうだとも。まだ入社そこそこでチーフになり、十分倉庫を回してくれている。この分だと来週の倉庫オープンも大丈夫そうだな」

「そう……ですね。不安はありますが、なんとか、みんなでなんとか……」

 随分不安そうだが、それでは逆に失敗しかねない。

「みんなでなんとか、という考えではいけない。君がチーフだ。君はチーフの技量があるとしてチーフに任命されている。だから、君が自信をもって引っ張っていけばいい。

 助けが欲しい時は、鳴丘サブマネが必ずアドバイスしてくれる。山城サブチーフもそうだ。まずは、自信を持ち、自らで組織を動かしていかなければいけないよ」

 滝に打たれたように目を見開いた彼女はしばらく黙っている。

「私、が……」

「そうだとも。だから君がチーフなんだ。階級制というのは名ばかりではない。それなりの意味がきちんとあるものだ」

 何度も頷いて

「はい」

と、納得してくれる。

「オープンに関して、困ったことはないか?」

「そう……ですね……。今はちょっと、何に困りそうなのかも分からないですし……、何かに困っているわけではありません」

「うん……、寅丸さんがいるからな。そういう面では安心している」

「はい、私もです」

 他人より自分を頼りにできるようにしてほしい、と苦笑をしてしまう。

「他に、困ったことは?」

「…………いえ……別に」

 唇をきゅっと結んで宙を見回す顔が、とてもキュートに見える。

 さて、あまり見とれているばかりでもいけない。そろろそ本題に入らなければならない。

「実は、附和専務のことだが」

 言った途端、彼女の視線も身体も固まった。

「昨日のことは一通り聞いた。その中で、最後の一言『香月愛は丁重に扱うように』がみんな気になっててね」

「特に意味はないと思います」

 そっけなく答える。

 あまり附和専務のことをよくは思っていない、という気がした。

「さすがに意味のない言葉ではないと思うが……」

「……私は、……あの、私の記憶のことは……」

「あぁ、もちろん知っている」

「その……私は、全く覚えていないんです。急に知り合いだと言って近づかれても、私は……困っています」

 予想外の展開にこちらが宙を見上げてしまった。

「うん……でもまあ、君に損になる人のようには思えないけどね」

「…………、得になる人ではないと思います」

 ……随分嫌っているようだ。

「しかし、我がリバティの親会社の専務の意向を無碍にするわけにもいかない。一応、何かあった時は、私に遠慮なく言ってほしい」

「…………、何かって」

「通常そんなことはないだろう。だがもし、人に言いづらい社内でのことなんかがあれば言ってほしい。それはもちろん全従業員皆同じなんだが。君は勝己マネージャーを飛び越えて私に言ってくれて構わない」

「…………」

 彼女は、納得いかない表情を浮かべ顔を上げようとしない。

「君のことを附和専務は心配しているだけだと思うよ。全く悪い話じゃないと思う。それほど気にすることでもない。

 私も、そればかり考えているというほど気にしているわけではない。だが、そうさせてほしいととは考えている」
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