絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅴ
5月22日の月曜日。今週がオンライン送料無料配達最後の週だ。
注文が殺到するのは目にみえているので、その分シフトは厚くなっている。特に週末は万全の体勢といっていい。
そのシフト作りに半分参加し、満足していた山城は、その日の朝、7時前に出社してきていた。
店は山瀬が出社の場合は7時過ぎに開けることが多いが、倉庫の事務所は独立しているので、出社時刻を鍵を持っている人が自由に決められる。そこが最高に良いところだ。
早寝早起きの山城は、その朝も快調な気分を味わいながら、澄んだ空気の事務所の中へ入る。
今日の作業は既に決まっている。
だいたい、作業というのはルーティーンワークで決められているので、後は、イレギュラーに対応していけばよいのだ。
入社して6年。システムはどんどん変わり、年が経てば経つほど、便利になっていっている。
入社しだちの時は、伝票が全てオンラインに繋がっていたわけではなかったし、色々苦労もああったが、今やネットなしでは何も確認できない状態で、それが逆に命取りにならなければ良いがと思いながら、その便利さには代えられない物があった。
新しい物が苦手な寅丸も、今までよくついてきてくれたと思う。いやしかし、そのネットやらの新しい物と、寅丸をつないできたのは常に自分だった。
最初からそうだったように思う。
寅丸を尊敬し、寅丸の信念で働き、寅丸の考えを反映する。
この倉庫は常に寅丸と共にあり、他の従業員も寅丸とあったようなものだ。
それが、香月チーフに突然取って代わった。自分としては、寅丸を心から尊敬しつつも、明らかに定年が近かったので、こうなる日が来ることは、ずっと予測していたが、同じように年をとっている従業員からすれば受け入れられず、反発が起こることを不安にも感じていた。
だが、香月はなんとかチーフとして受け入れられた。
その一つは、寅丸方式を一切変更しなかった点にある。
それも、もちろん自分が助言した。
時に、ややこしい方法、時に、遠回しな方法のまま、業務をしていることもある。しかしそれは、寅丸が変更する、といった場合にのみ変更するのが適当で、そうでない場合は触らないのが掟の北店の倉庫という組織だ。
ということは、この先寅丸が完全に退職した時、ルールがなくなる。
どうせなら、納得いかない者はそのまま辞めてくれたらいいが、といつも思うのだが、なかなかうまくはいかないだろう……。
デスクのパソコンを立ち上げる間、椅子に腰かけて、周囲を見渡す。
ふと、香月のパソコンが開いたままになっているのに気づき、立ち上がってその方へ……。
「えっ」
自分の声が辺りに響いた。
「こっ……」
一瞬のわりに、色々考えたと思う。
いつから倒れていたのか。
顔が床に着いて痛そうだとか。
まさか、死んではいないのか、とか。
「香月さん!!」
しゃがんで身体を抱き寄せ、ここぞとばかりに感触を確かめる。
大丈夫、生きている。
一瞬声がする。
「香月さん!!」
顔色は普通だ。目を閉じてはいるが、まさか寝ていたとは考えにくい。
「こっ……」
目がゆっくりと開きかかる。
それは、瞬きもはばかられるほどの美しい光景で、ばら色に輝く頬が白雪姫を想像させた。
柄にもなく、一瞬、自分が王子ではないかとまで、疑ってしまう。
「……」
生きていると安心した瞬間、邪念がよぎり、身体に触れている手を意識し、再度感触を確かめてしまう。
柔らかい。
くそぉ、目が開いてしまうのが、惜しい。
「……」
再びそのまま目を閉じたので、
「こ、香月さん?」
ここぞとばかりに顔を近づけてなめまわすように見つめる。
「……」
すぐ目を開くと思ったが、なかなか開かないのでさすがに焦って、
「香月さん、香月さん!!」
揺すって、強引に呼び起こす。
「……」
ようやく完全に目が開いた。
「……一体……」
ここで何を……。
辺りを見回したが特に異常はない。
「……誰か……」
小さく口を開いてくれる。
「え?」
耳を澄ませて集中すると、
「誰か……倉庫にいたような……」
「……」
何時頃の話だ?
「まだ、誰も来てませんけど……僕1人です。今鍵を開けましたから」
「え……」
眉間に皺を寄せ、顔つきが神妙になる。
「いてて……」
ようやく自力で身体を動かせ、俺の手から瞬時に離れて床にそのまま座り込む。
「大丈夫ですか? 残業のし過ぎじゃないですか?」
ここぞとばかりにその身体を抱え込み、立ち上がらせて椅子に座らせる。そこは香月の椅子でではないが、そんなことはどうでもいい。
「え、待って。今……昼……?」
香月は、窓の外を見て言った。
「今は朝の……7時15分です」
腕時計で確認しながら正確に言い終わるより前に、
「えっ!?」
香月は目を見開いた。
「嘘!? 私……」
「いつからここにいたんですか?」
よく見ると、頬に床の筋の痕が残っている。
「私……2時くらいに……」
「またぁ。早く帰って下さいって言ったじゃないですか」
隣の椅子に自分も腰かけ、苦笑しながら視線を合わせて話をすることにする。
「山城さんが帰ったの12時くらいでしたよね?」
「そうですよ。すぐ帰るって約束したじゃないですか」
「でも……ちょっとだけと思ってたら、2時になって。で、備品庫にファイルを取りに行こうと思って」
「ああ、今日の分のね。それはもう明日でいいって言ったじゃないですか」
昨日までのファイルがいっぱいになったので、明日新しいのを備品庫に取りにいかないといけないという話はしたが、備品庫は上にあるし、鍵はここのロッカーにあるが、一々開けないといけないから面倒なので、明日にしようという話にしたのに、これだ。
「うん。で、その帰りに、私……」
話が途切れたので、続きを待つ。
「私、倉庫に段ボールの溜まり具合を見に行って……」
「………」
それはもっと暇になってからでもいいと言ったのにという一言が浮かんだが、どうやらそうではなさそうだ。
「誰か、見た」
「え?……誰か、残ってたってことですか?」
言いながら、そうではないということが、既に香月の表情からは読み取れていた。
「……店の人じゃなかった」
すぐに立ち上がって事務所を出た。
まだ残っているとは考えにくい。
いやしかし、ホームレスかなんかが入り込んだ可能性はある。
いや、入り込めばセキュリティが作動する。
セキュリティが作動しなかったとしたら、香月が退店時にセキュリティのセットをしていなかったからか……。
倉庫を確認する。先に、人が隠れられそうな場所を全て覗く。
どうやら人はいなさそうだ。
ふと、オンライン出荷準備済の棚に目をやる。今日の朝一で宅配便が取りに来る予定の、既に準備が整った物。棚には所狭しと物が並び、ざっと30はある。
……昨日入荷していたはずのピンクのパソコンがない。
あれは、2週間待ってようやく入荷した取り寄せ商品で……。
急ぐからと、昨日の夜高額商品準備庫から出して、朝すぐ出せるように柊が用意しておいた物だ。
悪い予感がすぐに走ったので、高額商品準備庫が施錠されているかどうか、確認する。大丈夫だ、施錠されている。
ということは、誰かが、ここに入れ直したに違いない。
通常の流れはそうだ。そこから、宅配便に渡す段取りにはなっている。
こういうことのために、マニュアルはやはり、どんなに忙しくても守らなければならないなと思い直しながら、急いで事務所に鍵を取りに行く。
「……」
何も言わない香月を良いことに、ロッカーから鍵だけ取り、すぐに開錠した。
「うっわ……」
見事、棚には何も乗っていない。
全ての商品が盗難に遭っている。
そんなバカな。
鍵がかかっていたのに。
ふと、香月のことを思い出して、慌てて事務所に戻った。
だとしたら、犯人が香月を襲ったということになる。
「香月チーフ……」
香月は既に小刻みに震えていた。だが、自分も同じくらい震えていた。
「高額商品が、全て獲られています」
まずは、勝己に電話をした。だが、つながらない。時間的に朝の準備をしているのかもしれないし、運転中かもしれない。
だとしたら……だとしても、直で警察は早まっているかもしれない。
香月は外部説を立てたが、従業員だとしたら……というか、鍵がかかっていた上に元に戻されていたのだからその説しか考えられない。
「……ふ……」
香月が涙を流していることに気づいて、ようやく冷静さを取り戻さなければと思い直した。
「勝己マネにはつながりません。鳴丘サブにかけてみます」
鳴丘にはつながったが、勝己にはやはりつながらず、待つ意味もないと、鳴丘の判断で、鳴丘が、本社へ連絡をした。
香月はその間も、ずっと俯いて、肩を震わせている。よほど怖かったのだろうか…。
自分の判断は間違ってはいないと信じて、その小さな白く柔らかい手を強く握る。
「……犯人は……従業員ではありませんでしたか?」
これがもし警察官の尋問だとしたら、随分破廉恥だという余計な邪念が邪魔をする。
「………暗い中……懐中電灯を照らしてた。小さいやつ……。私、一瞬光に気が付いて、一応と思って覗いてみたら、マスクをした男がいて……あやしくて、怖かったから逃げようと思ったら、すごい肩のあたりが痛くなって……」
「肩……大丈夫ですか?」
「うん」
香月は俺の手を払って、自らの肩に触れた。肩というよりは、首に近いようだ。
うなじから白いブラウスを少しずらしてちらりと覗き、少しベージュのインナーが見える。ここぞとばかりに無表情を保ちながら
「別に、どうもなってはないと思う」
携帯が鳴った。自らの液晶を見たが、そうではない。香月のようだ。
「香月チーフ、電話じゃないですか?」
「……はぁぁ……」
心底動きにくそうに、立ち上がり、バックの中からそれを取る。
「……」
出るのを考えているのか、しばらく画面を見つめている。
確かに、この状況で、どうでもよい連絡は取りたくない。
着信音は、途切れる。
と、今度はすぐに事務所にかかってきた。
「はい、北店倉庫事務所です」
「香月は無事か?」
誰の声だか分からないが、本社の人間だと直感したので、
「はい、一応無事です」
「一応とはどういうことだ!?」
口調が厳しくなったので、
「いえ、その、肩が痛いとは言っていますが、特に重症ではなさそうです」
「本人に代わってくれ」
誰だと思いながら、相手が随分緊迫した雰囲気だったので、保留音を控え、受話器だけ抑えて、
「はい」
「誰ですか?」
香月は聞いたが、首をかしげるにとどめておく。
香月は仕方なさそうに、受話器を受け取ると、
「はい」
と、つづけた。
が、それ以降は、「はい」や「いいえ」くらいしか喋らず、すぐに電話は切れる。
すぐに
「誰でした?」
と、問うと
「九条専務」
と、思いもよらない言葉が返ってきて、
「え゛゛」
と、一歩引いた。
それほどの事件ではあるが、一気に駆け上がってそこから連絡が来るとは……いや、朝早いががために、たまたま九条専務しかいなかったのだろうか。
「で、なんて?」
「今すぐ来るって」
「……」
無言で頭を抱えるしかない。高額商品を配送の棚に置いておいたことも言われるだろうし、深夜に残業しすぎていたことも、遡って言われるだろう。
と、主に言われるのは、香月である。
このタイミングで、ようやく香月が、可哀そうに思えて来た。
発見が早朝だったため、と、鳴丘に連絡がつくのか早かったため、その日警察立ち合いの元での倉庫管理だったが、なんとか注文分には今のところ影響なしで通常通りの業務ができている。
それも、今のところ、であり、山城が言うには、オンラインの商品が少なくとも一つは欠品していることが分かっていて、今後支障をきたしてくるのは間違いない。
そのためには、新しい商品の手配を……しなければならないことは分かっていたが、今は山城だけでなく鳴丘も全ての時間をつかって作業してくれているので、香月は警察に言われるがまま、ぼんやりソファに座り込んでいる。
後でもう一度詳しく事情を、の後がいつなのかは分からないし、既に事情は詳しく話をしたつもりなので、他に何を話せば警察の納得がいくのか、その辺りを考えていた。
ふと、思い当たる。まさか、犯人と思われていないだろうか。
第一発見者は疑えという、刑事文句を思い出す。
だとしたら、車を開けてほしいとか言われるかもしれないし、家宅捜査ということもあり得るのだろうか。
犯人じゃないから別にいいけど……。
ソファに沈み込むように、考えも益々深みを帯びて来る。
「ふぅ……」
と、溜息を吐き、なんとなく喉が渇いたことを思い出した。
「この店のマネージャーは」
聞き覚えのある声に、ハッと我に返り、顔を上げた。
「……」
二度見した。附和薫だ。
腕時計を見る。まだ通報してから1時間しか経っていない状況で、しかもまだ、ストアマネージャーに連絡もついていない状況での親会社の専務が現場に来るなど、あり得ない気がして、さすがに固まった。
「連絡がついてないって、この一大事に……」
附和専務は、言いながら、私のひざ元にしゃがみ込み、間近で顔を見つめた。
「大丈夫?」
「……はい」
おそらく、専務としての仕事なんだと意識し、答える。
「病院へは? 話では、肩を殴られた、とか」
「か、どうかは分からないですけど……今は痛みは引きましたけど」
「なんで誰も病院に連れて行かないんだ」
吐き捨てるように言い放ち、立ち上がる。
「先に病院へ急ごう。車を回してある。どうなってるんだ。マネージャーはいない、被害者はほおりっぱなし……」
「あ、でも……」
立ち上がってみせる。
「そんな、大したことはないと思います。今も、平気な感じですし」
「医者に診てもらわないと分からないだろう。大事な身体なのに、放っておく方がどうかしてる」
附和はそのまま人目などまるで気にせず、しかし軽くだけ肩を抱き、人をすり抜け、事務所の外へ出ようとする。
「まだお話の途中ですが……」
割り込んできた警察にも、
「手当が先だ。何も異常がなければ、また話しますよ」
我が者顔で、颯爽と出て行く。
いや、確かにここは彼の会社だ。間違いはない。
「悪いが、今から人と会う約束があってね。君はこの車で病院まで行ってもらう。秘書をつけておくから」
「え!?」
驚いたのは、香月でもない、秘書の方だった。
「薫様はどうやって……」
「俺はタクシーを呼んだからそれで行く」
「いえ……」
それでしたらこっちの人をタクシーで、と、秘書が言いたいに決まっているので、
「私がタクシーで行きますから、附和専務は……」
「犯人まだ捕まってないんだから」
その瞬間、ドクン、と心臓が大きく鳴った。
心臓の痛みで、倒れそうになる。
「おい!」
短く言いながらも、附和は軽々身体を支えてくれる。
「どうした? 顔色が悪い。おい、病院まで急げ」
「あ、……は、はあ……」
仕方なさそうな秘書の声が聞こえる。
香月は附和に担がれ、後部座席のシートに寝かされた。
突然、嫌な気持ちがして、不安でいっぱいになる。
検査は夕方近くまでかかったが、予想通り何も異常はなかった。
附和専務の秘書は終始付き添い、受付など全ての業務をこなしてくれた。
何も異常がないことが、逆に申し訳ないと思えるほどで、香月は終始「ありがとうございます」と「すみません」を繰り返した。
しかも、帰りは自宅まで送り届けてくれるときた。
会社までは近いが帰りが遅くなるので車通勤しているが、病院から店までタクシーで帰り、そこから車で帰るのは、病院に行ったせいで逆にしんどい。
「お願いします」
秘書が運転する車に乗り込んで、初めて自分のバックが乗せられていることに気づいた。
誰かが気づいて、あの時乗せてくれたんだろう。
すぐに携帯電話を確認する。
附和が出て来たせいか、会社の人物からは何も連絡がない。
ただ、四対からは3件ほど、巽からは1件着信が入っていた。
四対とは、よく連絡を取り合っている。オープンしてからはその機会はぐんと減ったが、1人暮らしで1人布団に入るとなると、寂しくなるものなのだ。
そこで、ベッドに入り、四対に電話をかける。出ないことも多いのだが、出ないなら出ないで翌日かけてくれるし、特に、話したいことなど何もないのだが、なんとなくつながりに安心感を抱いている。
その四対とは逆に、巽とは、附和に浮気話を出されてから、一度も連絡は取っていない。
電話は二度ほどかかってきたが、出なかった。その後はあきらめたようだ。
だが、今回は、おそらく警察沙汰になったことを知って……心配してかけてきたのだろう。
そういうことをされると余計、胸が痛む。
巽を裏切ったことをほじくり返しているようで、とても嫌なのだ。
秘書がいる前で電話をするのは嫌だったので、四対に、「電話ありがとう。多分、強盗事件のこと聞いたんだよね。でも、大丈夫だから。もうすぐ家だから、また落ち着いたら電話するね」と、メールをしておく。
した後で気づく、会社にも連絡をしなければならない。
しかし、そちらは電話でも問題はない、と思い直し、そのまま鳴丘に電話をかける。
病院では異常がなかった事を告げると、安堵し、勝己マネージャーにも連絡するように言われたので、家に着いてからかけ直すと言って切った。
「ありがとうございました」
礼を述べ、2階建ての小さなアパートの階段を登ろうとした時、
「お帰り」
思いもかけない言葉が飛んで来て、驚いて振り返った。
「うわあ、どうしたのー」
嬉しくて、つい声が大きくなってしまう。
「社長ってのは、時間を自由に決められるんだよ」
そんなわけないと笑いながら、階段を上ろうとしたが、四対は着いて来ない。
「元気そうで、良かった……」
「あ、上がるー? 片付けてないけど。けどまだ勤務中か」
そういわなければならない気がしたので言ったが、実際はすぐにでも着替えて寝たい。
「いや、もう帰るよ」
立ち話でいいようだ。香月は階段を降り切り、目の前に寄った。
「大丈夫かなと思って。昼のテレビでやってて、お前が被害者だっていうから。でも病院でどうもなくて良かった」
どこでどう聞いたのか知らないが、まあ、四対にかかれば不思議なことなど特にない。
「そだね……。また、ゆっくり話しよっか……」
唐突に巽のことを思い出した。彼もテレビを見て心配したのだろう。このまま、放っておいてもいいのだが、四対が心配してかけつれてくれた姿をみると、そのままにしておけない気持ちになる。
「あぁ、じゃあな……」
四対は、そのまま振り返って車の方へ歩いて行きそうになる。
「ちょっと待って」
香月は、呼び止め、決心して口を開いた。
「あのさ……、巽さんと、会ったり……する?」
四対の顔がすぐに険しくなる。
「会うことなんかねーよ」
「そ、だよね……」
「…………」
四対は真っ赤なポルシェに背を持たせて、ポケットに手を突っ込み、足元を見つめる。
こちらの言葉を待っていてくれているのかもしれない。
「実はさぁ、もう最近全然連絡取ってないのよね」
「へぇ……」
どこ吹く風、といった表情だ。
「でもさぁ、さっき……」
道路から、車が派手な赤い車がこちらに近づいてきていることに気づいて、言葉を一度止めた。
「…」
しまった、九条専務だ。勝己には後で連絡しようと思っていたが、九条専務のことはすっかり忘れてしまっていた。
駐車場の枠外に停めている四対のポルシェの隣に、行儀よく停車した九条の、これまた赤い車。アルファロメオだ。
外見からはプリウスにでも乗っていそうな雰囲気なのだが、実際は車好きだったのか、と一瞬現実逃避する。
「あ……」
ドアを開けて降りて来る九条に言いかけると、何故か四対が腕を出して言葉を制した。
「あんたは?」
こらこら!
九条はちらとこちらを見たが、
「リバティの九条です」
何にも臆せず、四対を見据えている。
「…」
四対がそれに答えるより先に、
「ごめん、また、後で!!」
間髪入れず、四対に詫びた。
「電話か…メールの方がいい」
「うんうん」
早くこの場から立ち去ってほしい!と願う。
四対はそれを察しただろう、すぐにポルシェに乗り込んで静かに出て行く。
「すみません!!」
香月は頭を下げて、すぐに九条に取り入った。
「お友達、ですか」
九条はまだポルシェの後ろ姿を見つめている。
「ええ……あの、あんな口の利き方して、すみませんでした」
「……よければ、彼の名前を聞いても?」
「……」
それは、どういう意図があってだろうと、思ったが、おそらく、四対をどこかで見たことがあり、四対だろうと半分認識した上で聞いてきているに違いない。
「四対…樹さんです」
予想通り、何の反応もない。と、思ったが、ワンテンポ遅れて、
「おぉ、あれが、あの……」
わざとらしいのか、なんだか、読めない。
「ええ、まあ……」
としか言いようもない。
「お友達は長いのですか?」
「え? ええ……うーんと、長いんでしょぅけど、あんまり覚えてなくて」
と言ったとたん、附和のことを思い出す。電話は絶対にかけるべきだ。というか、最優先事項だ。
「今回のことは、すみませんでした」
突然、九条が腰を折って頭を下げたので、何事かと、
「えええ、え、な、なんですか?」
慌てふためく。
「あなたを病院に連れて行くのがたいそう遅れまして、随分附和専務に叱られました」
「申し訳ございません」
反射で同じように頭を下げて謝った。
「病院に行かなかったのは、私の判断です。行けと附和専務に命じられて行っただけですから。事実何もなかったわけですし」
「いや、先に行かせるべき……」
九条が一瞬黙ったので、続けた。
「附和専務は確かに、リバティの親会社の専務です。
でも、私は……、私は、附和専務のことをどうと思っているわけではありません」
「それは、何にも関係ないでしょう」
九条は涼しい顔で言い切る。
「どうしてですか?」
「附和専務の存在は、誰から見ても実に大きい」
こうなるのは、本当に嫌でたまらない。私は附和専務の何でもないし、むしろ何にもなりたくない。
「あの、私は、本当に附和専務に迷惑してて……。本当に、本当なんです」
「……だが、君の意見はこの際あまり、関係ない」
「そうです。私の意見なんて、附和専務からしたら関係ないのかもしれない。けど、やり方が強引だだから嫌いなんです。酷いし……本当にひどいんです、あの人は」
強引なキスのことだけが蘇る。ひょっとしたらそれ以前の浮気のことも、向こうが力任せだっったと思いたいが、こちらが拒まなかった、というようなことを言われたせいで、完全に混乱している。
「何か……された?」
「……お教えしますから、力になってもらえませんか?」
その取引に、九条が……。
「………」
応じるとは思っていないが……。
「ただ、こんなところで話せる内容ではありませんけど」
「……いや、私は聞くつもりはない」
「…………」
一気に突き放された気持ちになり、目に涙がにじんだ。
そういうふざけた縦社会は、私には合わない。うんざりだ!!
「……今日はもう帰って寝た方がいい。君も、疲れている」
「……」
頬から涙が流れた。
「……」
どうにでもなれ。
そんな気持ちで、九条に顔を向けることもなく、階段を上り始める。
「明日、明後日は休みだから」
大き目の声が後ろから聞こえる。
休むどころか、辞めたいくらいだ。
部屋に入り、附和、勝己、と順に電話をかけたが、附和は留守で出ず、勝己も何か作業の片手間だだったらしく、軽く報告しただけで済んだ。最後に四対にメールをしたが、とりあえず寝ることを伝え、返事する意思があまりないことを遠回しに伝えた。
まず風呂に入り、疲れを癒す。
今後しなければならない事を順序立てて考えたのは、附和への攻撃だけだった。
とにかく捕まえて、話をして、圧力をかけないでほしいとつたえなければならない。
ピンポーン。
風呂から出てすぐ、パジャマのタイミングでインターフォンを鳴らされて、思案しながら、魚眼レンズで外を覗く。
「なんで……」
附和専務だ。さっき携帯を見ても着信はなかったはず。
香月は、更に突然来られた事に更に腹が立ち、思い切ってドアを開けた。
「お……いや、異常がなかったとはいえ心配で……」
濡れた髪や、パジャマが新鮮に映ったのか、上から下までなめるように見つめられる。
「電話くらいしてください」
「しようと思ったんだけど、来た方が早かったから」
言いつつ、玄関に足を踏み入れようとしたので、
「外で話しましょう」
そのままの恰好構わず、外に出る。
「ノーブラじゃないよね?」
「んなわけないじゃないですか!!」
その笑い顔が腹が立つ。
「良かった、元気そうで」
言うタイミング、絶対間違っている。
階段を下りて、気づく。さて、ここではさすがに人目がつきすぎる。パジャマも、思いっきり薄いピンクのパジャマだし、肩にまだタオルをかけたままだ。
「車にでも乗る? その恰好で外にはいられないでしょ」
あなたが早く連絡くらいしてくれていれば、着替える暇があったんですが。
部屋の鍵もかけてないし、車に乗るだけだということを念を押して、乗り込む。
「九条専務に圧力をかけるのはやめてください」
目の前にした瞬間どんなやんわりした言い方で伝えようか一瞬考えたが、口からはそれらを全て吹きさらった一言が出た。それだけで、随分すっきりとする。
真剣な顔をしてくれるかな、と思ったが、真逆に彼はぷっと噴き出した。
「なんで笑うんですか」
「いやあ……やっぱり、君はこうじゃなきゃなあと思って」
「怒らせているのは、あなたの方です」
「いつもそう言われてるよ」
脱力したかったが、負けてたまるかと、睨む。
「だがしかし、圧力なんかはかけた覚えないけどね」
「附和専務に怒られたって言ってまました」
「当然だよ。従業員が強盗の被害に遭って、頭殴られてるのに放置してるなんて、考えられない。血が出ていないからって、そういう問題じゃない」
「でも、あの時はまだ九条専務は来ていませんでした」
「うん。誰もね。あの現場の最初の最高責任者は君だった」
言われて、身体の中を冷たい物が滑り落ちた。
「まずは自分自身のミスだよ。あぁいう場合は、念のため、と言って自ら病院に行くべきだ。じゃないと、無理をしないといけないのかな、と部下が思うものだ。それがよくない。古い会社の体制だよ」
「………」
押し黙るしかない。附和が言っていることは、全て当たっている。
「しかも君は、強盗に殴られた後、気絶していたからね。その間、知らない間に薬をかがされていたとか、色々な可能性はある。その時はよくても後に後遺症が出る場合とかね。
あの現場ならもう警察がいたし、山城という男が頼りになりそうだったし、皆かけつけて来る頃だし、先に山城に救急車を手配させるべきだった」
そんなことは到底思いつかなかった。鳴丘や九条が来るのを待っていなければならないとだけ考えていた。
だが、附和が言うことは最もだと思う。
「で? 君はどうして圧力をかけたと思ったわけ?」
「それは……、突然、うちに来たり、謝ったりしたので……」
「まあ、おそらく。色々な思い違いや勘違いでそうなったんだろうね。
……僕は従業員の君のことをとても大切にしている。ただし、君は僕の恋人ではない」
何を言い出すのだと思ったが、仕方なく黙って聞くことにする。
「僕が君を丁重に扱うように、と言ったから、恋人とでもとらえたんだろうか。でもそれで、病院に行かせずに放置したのだとしたら、由々しき問題だ」
「……その、その前に、どうして丁重に扱うように、なんて言ったんですか?」
「君のことが、好きだからだよ」
このタイミングでさらりと言ってのけるとは思わなかったので、思わず、視線を外した。
「……でも、そういうことは、たとえそうだとしても、その……部下の人に言うとなると、ややこしくなると思います。今回みたいに」
「何が? 九条が君のお守り役だとしたら、君が九条を好きになるかもしれないと思うのは、当然だろう。そこに釘をさす。当たり前のことだと思うけどね」
「……」
公私混同しないでください、と言おうとしてやめた。
九条のことを呼び捨てにした瞬間、親会社という言葉を思い出したのだ。
「じゃあ、最初から何も言わなかったら良かったんじゃないですか」
「ある意味ではそうだねえ。僕も若干後悔しないでもない」
専務なら、もっと先読めよ……。
附和の携帯電話が震える音が聞こえ、彼はそれに手を伸ばした。
「でも君が絡んでいると仕方ない。君は僕を常に乱すからね」
言いながらもメールを読んでいる。
「それはどっちかっていうと、私のセリフですが」
「お、いい返事だね」
もう既に話はどうでもいいらしい。
だが、逆にそれに腹が立ったので、話を再開させた。
「というわけで、九条専務に撤回してください」
「何を?」
ようやく携帯から視線を外す。
「その、丁重に、と言ったのは勘違いだったって」
「どんな?」
「それは、附和専務が考えて下さいよ」
「いや、勘違いじゃないよ。僕は君を丁重に扱え、と思っている」
「……そういうのは、迷惑です」
「そう? 苦しいでしょ。リバティ」
少し、思い当たる気がして、目を合わせた。
「ここは、エレクトロニクスとは違うんだ。何せ上下関係が厳しいからね。その分、下がなあなあになって、仕事がやりづらくなる。
早く古い階級制度をやめたいんだが、なかなか後ろ盾が多くてね。
というわけで、君がリバティで喜んで働いているのに、辞めさせたくない、という僕の一心の末の、丁重でもあるわけなんだよ」
「…………、……」
「それを、九条に言うもよし。ただし、他言無用が条件でね」
「…………、…………」
「あれ、意外に見直された?」
言いながら、キーを回す。やはり、さっきのメールは急ぎのもののようだ。
「そういうわけじゃないですけど」
こちらも、ドアを開けて、外に降りる。
「先部屋に入りな。君が入ったら俺も出るから」
本当に急いでいることが分かって、
「じゃあ、失礼します」
と、後ろも振り返らず、階段を駆け上がった。
これで今日の仕事は終わったはずだ。
もう午後7時になっている。昨日は床で寝てしまったし、最高に疲れているはずだから、こんな早くからでもベッドに入ればぐっすり眠れるはず。
そう思って布団に入ったのに、目が冴えてしまっている。
自然に昨日からのことを頭が再現していく。
はっと、気が付いて、玄関の施錠をもう一度確かめに行った。
大丈夫、チェーンもちゃんとかかっている。
でも、もしかしたら。これを機に、オートロック式とかの、もっとセキュリティが高いところに引っ越した方がいいのかもしれない。
あの時も、事務所の鍵は閉まっていたはずだと思う。
基本、誰かが外に出る時は、中の人が施錠し、最後に出る人が必ず鍵をかける。
だから、人が入ったとすれば、倉庫のシャッターということになる。
セキュリティという面に関しては一番甘いのではないか。
ピッキングとかするのなら、ドアよりは、シャッターの方が簡単な気がする。
まさか、鍵穴から鍵を作るなんて……最近ならできるのだろう……か……。
その時、ふと一週間前の事が頭をよぎった。
鍵を手にしたまま、倒れたあの時のことを。
いや、あの時一瞬倒れたと言ったではないか。あのマスクの女性が。
そんなはずはないと思いながら、身体は起き上がっていた。
あの時の肩口の痛みが、昨日の夜と酷似していたような気がしてならなくなってきた。
まさか、あの時……一瞬倒れた隙に、……鍵をコピーした?
まさか、いやそんな……。
でももし、ピッキングの痕跡がないとなれば、鍵を持っている人物が疑われかねない。
いてもたってもいられなくなった。
携帯電話を手にする。画面をスライドさせる手が震えている。
勝己よりも九条がいい、そんな気がした。
だが、今しがたのやりとりを思い出すと、電話をかける気が失せる。
山城にかけてみようか、でも逆に疑われたらどうしよう……。
言ってみれば、マスクの女性に助けられた時も、何の証拠もない。
考えは幾重にも重なり、先が見えなくなる。
山城に電話をかけても、勝己の判断を仰ぐだけだし、勝己にかけても、九条の判断を仰ぐだけだ。
だとしたら、やっぱり……。
意を決してみることにする。
時刻は8時前。まだ本社にいるだろうか、そう思い浮かべながら、コール音を聞く。
このまま出なかったら、どうしよう……。
『はい』
予想に反して、九条5回目のコールで出た。
「あの……。その……」
『丁度連絡しようと思っていたところで』
「え?」
あまり良い予感はしない。
『実は明日警察がもう一度事情聴取をしたいということで、場所を店にしている。時間は……』
「…………私、ひょっとして、疑われていませんか?」
『…………』
押し黙っている。それが答えだ。
「…………だって……犯人はどうやって入ったんでしょぅか……」
『今のところ、犯人の人数も、犯人が実際逃げたのかも分からない、ということだ』
「私が犯人だと思ってるんですね」
『……その可能性については私が全否定した。君は絶対にやっていない』
そんなこと、当たり前だと思ったが、ひょっとして警察が既に倉庫の人達に事情聴取とかして、盗みそうな人だとか思われていたということなのだろうか。
九条もどこまで否定を考えているか、分かったものではない。
「……あの、今まだお店ですか?」
『あぁ』
「あの、少し会ってお話がしたいんです。事件のことで思い出したことがありますし……」
『なら、電話で聞こう』
「いえ、さきほど附和専務が家に来て、話をしたことも九条専務に話しておきたいんです。附和専務も、九条専務には他言無用で話しても構わないとおっしゃってました」
『……分かった』
納得してくれたことに、安心した香月は、
「場所は、どこにしましょうか」
『店の会議室は?』
断る理由もないが、今、会社に行きたい気分ではない。
「できれば、外の方が」
『分かった。……もう一度家に行こう。車の中でも?』
「ええ、十分です」
注文が殺到するのは目にみえているので、その分シフトは厚くなっている。特に週末は万全の体勢といっていい。
そのシフト作りに半分参加し、満足していた山城は、その日の朝、7時前に出社してきていた。
店は山瀬が出社の場合は7時過ぎに開けることが多いが、倉庫の事務所は独立しているので、出社時刻を鍵を持っている人が自由に決められる。そこが最高に良いところだ。
早寝早起きの山城は、その朝も快調な気分を味わいながら、澄んだ空気の事務所の中へ入る。
今日の作業は既に決まっている。
だいたい、作業というのはルーティーンワークで決められているので、後は、イレギュラーに対応していけばよいのだ。
入社して6年。システムはどんどん変わり、年が経てば経つほど、便利になっていっている。
入社しだちの時は、伝票が全てオンラインに繋がっていたわけではなかったし、色々苦労もああったが、今やネットなしでは何も確認できない状態で、それが逆に命取りにならなければ良いがと思いながら、その便利さには代えられない物があった。
新しい物が苦手な寅丸も、今までよくついてきてくれたと思う。いやしかし、そのネットやらの新しい物と、寅丸をつないできたのは常に自分だった。
最初からそうだったように思う。
寅丸を尊敬し、寅丸の信念で働き、寅丸の考えを反映する。
この倉庫は常に寅丸と共にあり、他の従業員も寅丸とあったようなものだ。
それが、香月チーフに突然取って代わった。自分としては、寅丸を心から尊敬しつつも、明らかに定年が近かったので、こうなる日が来ることは、ずっと予測していたが、同じように年をとっている従業員からすれば受け入れられず、反発が起こることを不安にも感じていた。
だが、香月はなんとかチーフとして受け入れられた。
その一つは、寅丸方式を一切変更しなかった点にある。
それも、もちろん自分が助言した。
時に、ややこしい方法、時に、遠回しな方法のまま、業務をしていることもある。しかしそれは、寅丸が変更する、といった場合にのみ変更するのが適当で、そうでない場合は触らないのが掟の北店の倉庫という組織だ。
ということは、この先寅丸が完全に退職した時、ルールがなくなる。
どうせなら、納得いかない者はそのまま辞めてくれたらいいが、といつも思うのだが、なかなかうまくはいかないだろう……。
デスクのパソコンを立ち上げる間、椅子に腰かけて、周囲を見渡す。
ふと、香月のパソコンが開いたままになっているのに気づき、立ち上がってその方へ……。
「えっ」
自分の声が辺りに響いた。
「こっ……」
一瞬のわりに、色々考えたと思う。
いつから倒れていたのか。
顔が床に着いて痛そうだとか。
まさか、死んではいないのか、とか。
「香月さん!!」
しゃがんで身体を抱き寄せ、ここぞとばかりに感触を確かめる。
大丈夫、生きている。
一瞬声がする。
「香月さん!!」
顔色は普通だ。目を閉じてはいるが、まさか寝ていたとは考えにくい。
「こっ……」
目がゆっくりと開きかかる。
それは、瞬きもはばかられるほどの美しい光景で、ばら色に輝く頬が白雪姫を想像させた。
柄にもなく、一瞬、自分が王子ではないかとまで、疑ってしまう。
「……」
生きていると安心した瞬間、邪念がよぎり、身体に触れている手を意識し、再度感触を確かめてしまう。
柔らかい。
くそぉ、目が開いてしまうのが、惜しい。
「……」
再びそのまま目を閉じたので、
「こ、香月さん?」
ここぞとばかりに顔を近づけてなめまわすように見つめる。
「……」
すぐ目を開くと思ったが、なかなか開かないのでさすがに焦って、
「香月さん、香月さん!!」
揺すって、強引に呼び起こす。
「……」
ようやく完全に目が開いた。
「……一体……」
ここで何を……。
辺りを見回したが特に異常はない。
「……誰か……」
小さく口を開いてくれる。
「え?」
耳を澄ませて集中すると、
「誰か……倉庫にいたような……」
「……」
何時頃の話だ?
「まだ、誰も来てませんけど……僕1人です。今鍵を開けましたから」
「え……」
眉間に皺を寄せ、顔つきが神妙になる。
「いてて……」
ようやく自力で身体を動かせ、俺の手から瞬時に離れて床にそのまま座り込む。
「大丈夫ですか? 残業のし過ぎじゃないですか?」
ここぞとばかりにその身体を抱え込み、立ち上がらせて椅子に座らせる。そこは香月の椅子でではないが、そんなことはどうでもいい。
「え、待って。今……昼……?」
香月は、窓の外を見て言った。
「今は朝の……7時15分です」
腕時計で確認しながら正確に言い終わるより前に、
「えっ!?」
香月は目を見開いた。
「嘘!? 私……」
「いつからここにいたんですか?」
よく見ると、頬に床の筋の痕が残っている。
「私……2時くらいに……」
「またぁ。早く帰って下さいって言ったじゃないですか」
隣の椅子に自分も腰かけ、苦笑しながら視線を合わせて話をすることにする。
「山城さんが帰ったの12時くらいでしたよね?」
「そうですよ。すぐ帰るって約束したじゃないですか」
「でも……ちょっとだけと思ってたら、2時になって。で、備品庫にファイルを取りに行こうと思って」
「ああ、今日の分のね。それはもう明日でいいって言ったじゃないですか」
昨日までのファイルがいっぱいになったので、明日新しいのを備品庫に取りにいかないといけないという話はしたが、備品庫は上にあるし、鍵はここのロッカーにあるが、一々開けないといけないから面倒なので、明日にしようという話にしたのに、これだ。
「うん。で、その帰りに、私……」
話が途切れたので、続きを待つ。
「私、倉庫に段ボールの溜まり具合を見に行って……」
「………」
それはもっと暇になってからでもいいと言ったのにという一言が浮かんだが、どうやらそうではなさそうだ。
「誰か、見た」
「え?……誰か、残ってたってことですか?」
言いながら、そうではないということが、既に香月の表情からは読み取れていた。
「……店の人じゃなかった」
すぐに立ち上がって事務所を出た。
まだ残っているとは考えにくい。
いやしかし、ホームレスかなんかが入り込んだ可能性はある。
いや、入り込めばセキュリティが作動する。
セキュリティが作動しなかったとしたら、香月が退店時にセキュリティのセットをしていなかったからか……。
倉庫を確認する。先に、人が隠れられそうな場所を全て覗く。
どうやら人はいなさそうだ。
ふと、オンライン出荷準備済の棚に目をやる。今日の朝一で宅配便が取りに来る予定の、既に準備が整った物。棚には所狭しと物が並び、ざっと30はある。
……昨日入荷していたはずのピンクのパソコンがない。
あれは、2週間待ってようやく入荷した取り寄せ商品で……。
急ぐからと、昨日の夜高額商品準備庫から出して、朝すぐ出せるように柊が用意しておいた物だ。
悪い予感がすぐに走ったので、高額商品準備庫が施錠されているかどうか、確認する。大丈夫だ、施錠されている。
ということは、誰かが、ここに入れ直したに違いない。
通常の流れはそうだ。そこから、宅配便に渡す段取りにはなっている。
こういうことのために、マニュアルはやはり、どんなに忙しくても守らなければならないなと思い直しながら、急いで事務所に鍵を取りに行く。
「……」
何も言わない香月を良いことに、ロッカーから鍵だけ取り、すぐに開錠した。
「うっわ……」
見事、棚には何も乗っていない。
全ての商品が盗難に遭っている。
そんなバカな。
鍵がかかっていたのに。
ふと、香月のことを思い出して、慌てて事務所に戻った。
だとしたら、犯人が香月を襲ったということになる。
「香月チーフ……」
香月は既に小刻みに震えていた。だが、自分も同じくらい震えていた。
「高額商品が、全て獲られています」
まずは、勝己に電話をした。だが、つながらない。時間的に朝の準備をしているのかもしれないし、運転中かもしれない。
だとしたら……だとしても、直で警察は早まっているかもしれない。
香月は外部説を立てたが、従業員だとしたら……というか、鍵がかかっていた上に元に戻されていたのだからその説しか考えられない。
「……ふ……」
香月が涙を流していることに気づいて、ようやく冷静さを取り戻さなければと思い直した。
「勝己マネにはつながりません。鳴丘サブにかけてみます」
鳴丘にはつながったが、勝己にはやはりつながらず、待つ意味もないと、鳴丘の判断で、鳴丘が、本社へ連絡をした。
香月はその間も、ずっと俯いて、肩を震わせている。よほど怖かったのだろうか…。
自分の判断は間違ってはいないと信じて、その小さな白く柔らかい手を強く握る。
「……犯人は……従業員ではありませんでしたか?」
これがもし警察官の尋問だとしたら、随分破廉恥だという余計な邪念が邪魔をする。
「………暗い中……懐中電灯を照らしてた。小さいやつ……。私、一瞬光に気が付いて、一応と思って覗いてみたら、マスクをした男がいて……あやしくて、怖かったから逃げようと思ったら、すごい肩のあたりが痛くなって……」
「肩……大丈夫ですか?」
「うん」
香月は俺の手を払って、自らの肩に触れた。肩というよりは、首に近いようだ。
うなじから白いブラウスを少しずらしてちらりと覗き、少しベージュのインナーが見える。ここぞとばかりに無表情を保ちながら
「別に、どうもなってはないと思う」
携帯が鳴った。自らの液晶を見たが、そうではない。香月のようだ。
「香月チーフ、電話じゃないですか?」
「……はぁぁ……」
心底動きにくそうに、立ち上がり、バックの中からそれを取る。
「……」
出るのを考えているのか、しばらく画面を見つめている。
確かに、この状況で、どうでもよい連絡は取りたくない。
着信音は、途切れる。
と、今度はすぐに事務所にかかってきた。
「はい、北店倉庫事務所です」
「香月は無事か?」
誰の声だか分からないが、本社の人間だと直感したので、
「はい、一応無事です」
「一応とはどういうことだ!?」
口調が厳しくなったので、
「いえ、その、肩が痛いとは言っていますが、特に重症ではなさそうです」
「本人に代わってくれ」
誰だと思いながら、相手が随分緊迫した雰囲気だったので、保留音を控え、受話器だけ抑えて、
「はい」
「誰ですか?」
香月は聞いたが、首をかしげるにとどめておく。
香月は仕方なさそうに、受話器を受け取ると、
「はい」
と、つづけた。
が、それ以降は、「はい」や「いいえ」くらいしか喋らず、すぐに電話は切れる。
すぐに
「誰でした?」
と、問うと
「九条専務」
と、思いもよらない言葉が返ってきて、
「え゛゛」
と、一歩引いた。
それほどの事件ではあるが、一気に駆け上がってそこから連絡が来るとは……いや、朝早いががために、たまたま九条専務しかいなかったのだろうか。
「で、なんて?」
「今すぐ来るって」
「……」
無言で頭を抱えるしかない。高額商品を配送の棚に置いておいたことも言われるだろうし、深夜に残業しすぎていたことも、遡って言われるだろう。
と、主に言われるのは、香月である。
このタイミングで、ようやく香月が、可哀そうに思えて来た。
発見が早朝だったため、と、鳴丘に連絡がつくのか早かったため、その日警察立ち合いの元での倉庫管理だったが、なんとか注文分には今のところ影響なしで通常通りの業務ができている。
それも、今のところ、であり、山城が言うには、オンラインの商品が少なくとも一つは欠品していることが分かっていて、今後支障をきたしてくるのは間違いない。
そのためには、新しい商品の手配を……しなければならないことは分かっていたが、今は山城だけでなく鳴丘も全ての時間をつかって作業してくれているので、香月は警察に言われるがまま、ぼんやりソファに座り込んでいる。
後でもう一度詳しく事情を、の後がいつなのかは分からないし、既に事情は詳しく話をしたつもりなので、他に何を話せば警察の納得がいくのか、その辺りを考えていた。
ふと、思い当たる。まさか、犯人と思われていないだろうか。
第一発見者は疑えという、刑事文句を思い出す。
だとしたら、車を開けてほしいとか言われるかもしれないし、家宅捜査ということもあり得るのだろうか。
犯人じゃないから別にいいけど……。
ソファに沈み込むように、考えも益々深みを帯びて来る。
「ふぅ……」
と、溜息を吐き、なんとなく喉が渇いたことを思い出した。
「この店のマネージャーは」
聞き覚えのある声に、ハッと我に返り、顔を上げた。
「……」
二度見した。附和薫だ。
腕時計を見る。まだ通報してから1時間しか経っていない状況で、しかもまだ、ストアマネージャーに連絡もついていない状況での親会社の専務が現場に来るなど、あり得ない気がして、さすがに固まった。
「連絡がついてないって、この一大事に……」
附和専務は、言いながら、私のひざ元にしゃがみ込み、間近で顔を見つめた。
「大丈夫?」
「……はい」
おそらく、専務としての仕事なんだと意識し、答える。
「病院へは? 話では、肩を殴られた、とか」
「か、どうかは分からないですけど……今は痛みは引きましたけど」
「なんで誰も病院に連れて行かないんだ」
吐き捨てるように言い放ち、立ち上がる。
「先に病院へ急ごう。車を回してある。どうなってるんだ。マネージャーはいない、被害者はほおりっぱなし……」
「あ、でも……」
立ち上がってみせる。
「そんな、大したことはないと思います。今も、平気な感じですし」
「医者に診てもらわないと分からないだろう。大事な身体なのに、放っておく方がどうかしてる」
附和はそのまま人目などまるで気にせず、しかし軽くだけ肩を抱き、人をすり抜け、事務所の外へ出ようとする。
「まだお話の途中ですが……」
割り込んできた警察にも、
「手当が先だ。何も異常がなければ、また話しますよ」
我が者顔で、颯爽と出て行く。
いや、確かにここは彼の会社だ。間違いはない。
「悪いが、今から人と会う約束があってね。君はこの車で病院まで行ってもらう。秘書をつけておくから」
「え!?」
驚いたのは、香月でもない、秘書の方だった。
「薫様はどうやって……」
「俺はタクシーを呼んだからそれで行く」
「いえ……」
それでしたらこっちの人をタクシーで、と、秘書が言いたいに決まっているので、
「私がタクシーで行きますから、附和専務は……」
「犯人まだ捕まってないんだから」
その瞬間、ドクン、と心臓が大きく鳴った。
心臓の痛みで、倒れそうになる。
「おい!」
短く言いながらも、附和は軽々身体を支えてくれる。
「どうした? 顔色が悪い。おい、病院まで急げ」
「あ、……は、はあ……」
仕方なさそうな秘書の声が聞こえる。
香月は附和に担がれ、後部座席のシートに寝かされた。
突然、嫌な気持ちがして、不安でいっぱいになる。
検査は夕方近くまでかかったが、予想通り何も異常はなかった。
附和専務の秘書は終始付き添い、受付など全ての業務をこなしてくれた。
何も異常がないことが、逆に申し訳ないと思えるほどで、香月は終始「ありがとうございます」と「すみません」を繰り返した。
しかも、帰りは自宅まで送り届けてくれるときた。
会社までは近いが帰りが遅くなるので車通勤しているが、病院から店までタクシーで帰り、そこから車で帰るのは、病院に行ったせいで逆にしんどい。
「お願いします」
秘書が運転する車に乗り込んで、初めて自分のバックが乗せられていることに気づいた。
誰かが気づいて、あの時乗せてくれたんだろう。
すぐに携帯電話を確認する。
附和が出て来たせいか、会社の人物からは何も連絡がない。
ただ、四対からは3件ほど、巽からは1件着信が入っていた。
四対とは、よく連絡を取り合っている。オープンしてからはその機会はぐんと減ったが、1人暮らしで1人布団に入るとなると、寂しくなるものなのだ。
そこで、ベッドに入り、四対に電話をかける。出ないことも多いのだが、出ないなら出ないで翌日かけてくれるし、特に、話したいことなど何もないのだが、なんとなくつながりに安心感を抱いている。
その四対とは逆に、巽とは、附和に浮気話を出されてから、一度も連絡は取っていない。
電話は二度ほどかかってきたが、出なかった。その後はあきらめたようだ。
だが、今回は、おそらく警察沙汰になったことを知って……心配してかけてきたのだろう。
そういうことをされると余計、胸が痛む。
巽を裏切ったことをほじくり返しているようで、とても嫌なのだ。
秘書がいる前で電話をするのは嫌だったので、四対に、「電話ありがとう。多分、強盗事件のこと聞いたんだよね。でも、大丈夫だから。もうすぐ家だから、また落ち着いたら電話するね」と、メールをしておく。
した後で気づく、会社にも連絡をしなければならない。
しかし、そちらは電話でも問題はない、と思い直し、そのまま鳴丘に電話をかける。
病院では異常がなかった事を告げると、安堵し、勝己マネージャーにも連絡するように言われたので、家に着いてからかけ直すと言って切った。
「ありがとうございました」
礼を述べ、2階建ての小さなアパートの階段を登ろうとした時、
「お帰り」
思いもかけない言葉が飛んで来て、驚いて振り返った。
「うわあ、どうしたのー」
嬉しくて、つい声が大きくなってしまう。
「社長ってのは、時間を自由に決められるんだよ」
そんなわけないと笑いながら、階段を上ろうとしたが、四対は着いて来ない。
「元気そうで、良かった……」
「あ、上がるー? 片付けてないけど。けどまだ勤務中か」
そういわなければならない気がしたので言ったが、実際はすぐにでも着替えて寝たい。
「いや、もう帰るよ」
立ち話でいいようだ。香月は階段を降り切り、目の前に寄った。
「大丈夫かなと思って。昼のテレビでやってて、お前が被害者だっていうから。でも病院でどうもなくて良かった」
どこでどう聞いたのか知らないが、まあ、四対にかかれば不思議なことなど特にない。
「そだね……。また、ゆっくり話しよっか……」
唐突に巽のことを思い出した。彼もテレビを見て心配したのだろう。このまま、放っておいてもいいのだが、四対が心配してかけつれてくれた姿をみると、そのままにしておけない気持ちになる。
「あぁ、じゃあな……」
四対は、そのまま振り返って車の方へ歩いて行きそうになる。
「ちょっと待って」
香月は、呼び止め、決心して口を開いた。
「あのさ……、巽さんと、会ったり……する?」
四対の顔がすぐに険しくなる。
「会うことなんかねーよ」
「そ、だよね……」
「…………」
四対は真っ赤なポルシェに背を持たせて、ポケットに手を突っ込み、足元を見つめる。
こちらの言葉を待っていてくれているのかもしれない。
「実はさぁ、もう最近全然連絡取ってないのよね」
「へぇ……」
どこ吹く風、といった表情だ。
「でもさぁ、さっき……」
道路から、車が派手な赤い車がこちらに近づいてきていることに気づいて、言葉を一度止めた。
「…」
しまった、九条専務だ。勝己には後で連絡しようと思っていたが、九条専務のことはすっかり忘れてしまっていた。
駐車場の枠外に停めている四対のポルシェの隣に、行儀よく停車した九条の、これまた赤い車。アルファロメオだ。
外見からはプリウスにでも乗っていそうな雰囲気なのだが、実際は車好きだったのか、と一瞬現実逃避する。
「あ……」
ドアを開けて降りて来る九条に言いかけると、何故か四対が腕を出して言葉を制した。
「あんたは?」
こらこら!
九条はちらとこちらを見たが、
「リバティの九条です」
何にも臆せず、四対を見据えている。
「…」
四対がそれに答えるより先に、
「ごめん、また、後で!!」
間髪入れず、四対に詫びた。
「電話か…メールの方がいい」
「うんうん」
早くこの場から立ち去ってほしい!と願う。
四対はそれを察しただろう、すぐにポルシェに乗り込んで静かに出て行く。
「すみません!!」
香月は頭を下げて、すぐに九条に取り入った。
「お友達、ですか」
九条はまだポルシェの後ろ姿を見つめている。
「ええ……あの、あんな口の利き方して、すみませんでした」
「……よければ、彼の名前を聞いても?」
「……」
それは、どういう意図があってだろうと、思ったが、おそらく、四対をどこかで見たことがあり、四対だろうと半分認識した上で聞いてきているに違いない。
「四対…樹さんです」
予想通り、何の反応もない。と、思ったが、ワンテンポ遅れて、
「おぉ、あれが、あの……」
わざとらしいのか、なんだか、読めない。
「ええ、まあ……」
としか言いようもない。
「お友達は長いのですか?」
「え? ええ……うーんと、長いんでしょぅけど、あんまり覚えてなくて」
と言ったとたん、附和のことを思い出す。電話は絶対にかけるべきだ。というか、最優先事項だ。
「今回のことは、すみませんでした」
突然、九条が腰を折って頭を下げたので、何事かと、
「えええ、え、な、なんですか?」
慌てふためく。
「あなたを病院に連れて行くのがたいそう遅れまして、随分附和専務に叱られました」
「申し訳ございません」
反射で同じように頭を下げて謝った。
「病院に行かなかったのは、私の判断です。行けと附和専務に命じられて行っただけですから。事実何もなかったわけですし」
「いや、先に行かせるべき……」
九条が一瞬黙ったので、続けた。
「附和専務は確かに、リバティの親会社の専務です。
でも、私は……、私は、附和専務のことをどうと思っているわけではありません」
「それは、何にも関係ないでしょう」
九条は涼しい顔で言い切る。
「どうしてですか?」
「附和専務の存在は、誰から見ても実に大きい」
こうなるのは、本当に嫌でたまらない。私は附和専務の何でもないし、むしろ何にもなりたくない。
「あの、私は、本当に附和専務に迷惑してて……。本当に、本当なんです」
「……だが、君の意見はこの際あまり、関係ない」
「そうです。私の意見なんて、附和専務からしたら関係ないのかもしれない。けど、やり方が強引だだから嫌いなんです。酷いし……本当にひどいんです、あの人は」
強引なキスのことだけが蘇る。ひょっとしたらそれ以前の浮気のことも、向こうが力任せだっったと思いたいが、こちらが拒まなかった、というようなことを言われたせいで、完全に混乱している。
「何か……された?」
「……お教えしますから、力になってもらえませんか?」
その取引に、九条が……。
「………」
応じるとは思っていないが……。
「ただ、こんなところで話せる内容ではありませんけど」
「……いや、私は聞くつもりはない」
「…………」
一気に突き放された気持ちになり、目に涙がにじんだ。
そういうふざけた縦社会は、私には合わない。うんざりだ!!
「……今日はもう帰って寝た方がいい。君も、疲れている」
「……」
頬から涙が流れた。
「……」
どうにでもなれ。
そんな気持ちで、九条に顔を向けることもなく、階段を上り始める。
「明日、明後日は休みだから」
大き目の声が後ろから聞こえる。
休むどころか、辞めたいくらいだ。
部屋に入り、附和、勝己、と順に電話をかけたが、附和は留守で出ず、勝己も何か作業の片手間だだったらしく、軽く報告しただけで済んだ。最後に四対にメールをしたが、とりあえず寝ることを伝え、返事する意思があまりないことを遠回しに伝えた。
まず風呂に入り、疲れを癒す。
今後しなければならない事を順序立てて考えたのは、附和への攻撃だけだった。
とにかく捕まえて、話をして、圧力をかけないでほしいとつたえなければならない。
ピンポーン。
風呂から出てすぐ、パジャマのタイミングでインターフォンを鳴らされて、思案しながら、魚眼レンズで外を覗く。
「なんで……」
附和専務だ。さっき携帯を見ても着信はなかったはず。
香月は、更に突然来られた事に更に腹が立ち、思い切ってドアを開けた。
「お……いや、異常がなかったとはいえ心配で……」
濡れた髪や、パジャマが新鮮に映ったのか、上から下までなめるように見つめられる。
「電話くらいしてください」
「しようと思ったんだけど、来た方が早かったから」
言いつつ、玄関に足を踏み入れようとしたので、
「外で話しましょう」
そのままの恰好構わず、外に出る。
「ノーブラじゃないよね?」
「んなわけないじゃないですか!!」
その笑い顔が腹が立つ。
「良かった、元気そうで」
言うタイミング、絶対間違っている。
階段を下りて、気づく。さて、ここではさすがに人目がつきすぎる。パジャマも、思いっきり薄いピンクのパジャマだし、肩にまだタオルをかけたままだ。
「車にでも乗る? その恰好で外にはいられないでしょ」
あなたが早く連絡くらいしてくれていれば、着替える暇があったんですが。
部屋の鍵もかけてないし、車に乗るだけだということを念を押して、乗り込む。
「九条専務に圧力をかけるのはやめてください」
目の前にした瞬間どんなやんわりした言い方で伝えようか一瞬考えたが、口からはそれらを全て吹きさらった一言が出た。それだけで、随分すっきりとする。
真剣な顔をしてくれるかな、と思ったが、真逆に彼はぷっと噴き出した。
「なんで笑うんですか」
「いやあ……やっぱり、君はこうじゃなきゃなあと思って」
「怒らせているのは、あなたの方です」
「いつもそう言われてるよ」
脱力したかったが、負けてたまるかと、睨む。
「だがしかし、圧力なんかはかけた覚えないけどね」
「附和専務に怒られたって言ってまました」
「当然だよ。従業員が強盗の被害に遭って、頭殴られてるのに放置してるなんて、考えられない。血が出ていないからって、そういう問題じゃない」
「でも、あの時はまだ九条専務は来ていませんでした」
「うん。誰もね。あの現場の最初の最高責任者は君だった」
言われて、身体の中を冷たい物が滑り落ちた。
「まずは自分自身のミスだよ。あぁいう場合は、念のため、と言って自ら病院に行くべきだ。じゃないと、無理をしないといけないのかな、と部下が思うものだ。それがよくない。古い会社の体制だよ」
「………」
押し黙るしかない。附和が言っていることは、全て当たっている。
「しかも君は、強盗に殴られた後、気絶していたからね。その間、知らない間に薬をかがされていたとか、色々な可能性はある。その時はよくても後に後遺症が出る場合とかね。
あの現場ならもう警察がいたし、山城という男が頼りになりそうだったし、皆かけつけて来る頃だし、先に山城に救急車を手配させるべきだった」
そんなことは到底思いつかなかった。鳴丘や九条が来るのを待っていなければならないとだけ考えていた。
だが、附和が言うことは最もだと思う。
「で? 君はどうして圧力をかけたと思ったわけ?」
「それは……、突然、うちに来たり、謝ったりしたので……」
「まあ、おそらく。色々な思い違いや勘違いでそうなったんだろうね。
……僕は従業員の君のことをとても大切にしている。ただし、君は僕の恋人ではない」
何を言い出すのだと思ったが、仕方なく黙って聞くことにする。
「僕が君を丁重に扱うように、と言ったから、恋人とでもとらえたんだろうか。でもそれで、病院に行かせずに放置したのだとしたら、由々しき問題だ」
「……その、その前に、どうして丁重に扱うように、なんて言ったんですか?」
「君のことが、好きだからだよ」
このタイミングでさらりと言ってのけるとは思わなかったので、思わず、視線を外した。
「……でも、そういうことは、たとえそうだとしても、その……部下の人に言うとなると、ややこしくなると思います。今回みたいに」
「何が? 九条が君のお守り役だとしたら、君が九条を好きになるかもしれないと思うのは、当然だろう。そこに釘をさす。当たり前のことだと思うけどね」
「……」
公私混同しないでください、と言おうとしてやめた。
九条のことを呼び捨てにした瞬間、親会社という言葉を思い出したのだ。
「じゃあ、最初から何も言わなかったら良かったんじゃないですか」
「ある意味ではそうだねえ。僕も若干後悔しないでもない」
専務なら、もっと先読めよ……。
附和の携帯電話が震える音が聞こえ、彼はそれに手を伸ばした。
「でも君が絡んでいると仕方ない。君は僕を常に乱すからね」
言いながらもメールを読んでいる。
「それはどっちかっていうと、私のセリフですが」
「お、いい返事だね」
もう既に話はどうでもいいらしい。
だが、逆にそれに腹が立ったので、話を再開させた。
「というわけで、九条専務に撤回してください」
「何を?」
ようやく携帯から視線を外す。
「その、丁重に、と言ったのは勘違いだったって」
「どんな?」
「それは、附和専務が考えて下さいよ」
「いや、勘違いじゃないよ。僕は君を丁重に扱え、と思っている」
「……そういうのは、迷惑です」
「そう? 苦しいでしょ。リバティ」
少し、思い当たる気がして、目を合わせた。
「ここは、エレクトロニクスとは違うんだ。何せ上下関係が厳しいからね。その分、下がなあなあになって、仕事がやりづらくなる。
早く古い階級制度をやめたいんだが、なかなか後ろ盾が多くてね。
というわけで、君がリバティで喜んで働いているのに、辞めさせたくない、という僕の一心の末の、丁重でもあるわけなんだよ」
「…………、……」
「それを、九条に言うもよし。ただし、他言無用が条件でね」
「…………、…………」
「あれ、意外に見直された?」
言いながら、キーを回す。やはり、さっきのメールは急ぎのもののようだ。
「そういうわけじゃないですけど」
こちらも、ドアを開けて、外に降りる。
「先部屋に入りな。君が入ったら俺も出るから」
本当に急いでいることが分かって、
「じゃあ、失礼します」
と、後ろも振り返らず、階段を駆け上がった。
これで今日の仕事は終わったはずだ。
もう午後7時になっている。昨日は床で寝てしまったし、最高に疲れているはずだから、こんな早くからでもベッドに入ればぐっすり眠れるはず。
そう思って布団に入ったのに、目が冴えてしまっている。
自然に昨日からのことを頭が再現していく。
はっと、気が付いて、玄関の施錠をもう一度確かめに行った。
大丈夫、チェーンもちゃんとかかっている。
でも、もしかしたら。これを機に、オートロック式とかの、もっとセキュリティが高いところに引っ越した方がいいのかもしれない。
あの時も、事務所の鍵は閉まっていたはずだと思う。
基本、誰かが外に出る時は、中の人が施錠し、最後に出る人が必ず鍵をかける。
だから、人が入ったとすれば、倉庫のシャッターということになる。
セキュリティという面に関しては一番甘いのではないか。
ピッキングとかするのなら、ドアよりは、シャッターの方が簡単な気がする。
まさか、鍵穴から鍵を作るなんて……最近ならできるのだろう……か……。
その時、ふと一週間前の事が頭をよぎった。
鍵を手にしたまま、倒れたあの時のことを。
いや、あの時一瞬倒れたと言ったではないか。あのマスクの女性が。
そんなはずはないと思いながら、身体は起き上がっていた。
あの時の肩口の痛みが、昨日の夜と酷似していたような気がしてならなくなってきた。
まさか、あの時……一瞬倒れた隙に、……鍵をコピーした?
まさか、いやそんな……。
でももし、ピッキングの痕跡がないとなれば、鍵を持っている人物が疑われかねない。
いてもたってもいられなくなった。
携帯電話を手にする。画面をスライドさせる手が震えている。
勝己よりも九条がいい、そんな気がした。
だが、今しがたのやりとりを思い出すと、電話をかける気が失せる。
山城にかけてみようか、でも逆に疑われたらどうしよう……。
言ってみれば、マスクの女性に助けられた時も、何の証拠もない。
考えは幾重にも重なり、先が見えなくなる。
山城に電話をかけても、勝己の判断を仰ぐだけだし、勝己にかけても、九条の判断を仰ぐだけだ。
だとしたら、やっぱり……。
意を決してみることにする。
時刻は8時前。まだ本社にいるだろうか、そう思い浮かべながら、コール音を聞く。
このまま出なかったら、どうしよう……。
『はい』
予想に反して、九条5回目のコールで出た。
「あの……。その……」
『丁度連絡しようと思っていたところで』
「え?」
あまり良い予感はしない。
『実は明日警察がもう一度事情聴取をしたいということで、場所を店にしている。時間は……』
「…………私、ひょっとして、疑われていませんか?」
『…………』
押し黙っている。それが答えだ。
「…………だって……犯人はどうやって入ったんでしょぅか……」
『今のところ、犯人の人数も、犯人が実際逃げたのかも分からない、ということだ』
「私が犯人だと思ってるんですね」
『……その可能性については私が全否定した。君は絶対にやっていない』
そんなこと、当たり前だと思ったが、ひょっとして警察が既に倉庫の人達に事情聴取とかして、盗みそうな人だとか思われていたということなのだろうか。
九条もどこまで否定を考えているか、分かったものではない。
「……あの、今まだお店ですか?」
『あぁ』
「あの、少し会ってお話がしたいんです。事件のことで思い出したことがありますし……」
『なら、電話で聞こう』
「いえ、さきほど附和専務が家に来て、話をしたことも九条専務に話しておきたいんです。附和専務も、九条専務には他言無用で話しても構わないとおっしゃってました」
『……分かった』
納得してくれたことに、安心した香月は、
「場所は、どこにしましょうか」
『店の会議室は?』
断る理由もないが、今、会社に行きたい気分ではない。
「できれば、外の方が」
『分かった。……もう一度家に行こう。車の中でも?』
「ええ、十分です」