絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅴ
 巽 光路は、突然降り堕ちてきた悲劇に、ただ己の無力さを感じていた。

 病院では、親族とは別室で榊医師から現状をできるだけ詳しく聞き、最後に彼の連絡先を聞いた。

 その理由は、しばらく会うのを控えておいた方が良いと言われたからだ。

 それなら、次にいつ会うべきなのか、教えてもらう必要がある。

 脳震盪による一時的な、おそらく部分的な記憶喪失というものはよくあるのかどうなのか、それがどのくらいの確率で戻るものなのか、はたまた戻らないものなのか全く予想もできていない。

 しかし、愛の中の俺の記憶が戻っても戻らなくても、卵管の手術をしている以上、俺が責任を取る必要がある。

 いや、いつもそのつもりだ。

 いつの時もそのつもりで受け入れようとしているのに、軽く拒まれているような、むしろ四対の方が良いと言われているような、そんな気がしていた。

 その疑いは日増しに強くなり、一昨日当てつけのように部屋に烏丸を呼んだ。

 もっと冷静になるべきだったと、今なら思う。

 そうは思っていても、四対ビルの個室に2人きりで入って行ったのがどうしても許せなかった。

 あまりにも腹が立って、むしろ冷えてすらいた。

 そこまで言っても分からないのなら、勝手にすれば良い。

 何がケーキだ。そんなものが一体なんだと言うのだ。

 顔を見たら、きつく言い放ってしまうかもしれない。

 そんな気がして、あの日の朝は書斎にいたというのに。

 何がどうなったのか、彼女は階段を駆け下りて足を滑らせた。

 それほど何を急いでいたのか。もしかしたら、四対か誰かからまた連絡があったのか。

 分からない。 

 ただはっきりしていることは、今、この前後の記憶がおそらくなくなり、俺のことを思い出せないということだ。
 
 しかも、記憶の混乱を避けて、医師には面会を謝絶されている。詳しい検査は後日ということだが、年末年始で検査が遅れなければいいが……。

 「ふぅ……」

 大きく溜息を吐く。

 既にあれから丸一日になろうとしている。仕事を急遽休んで家に戻ってきたものの、何もやる気がせずに、昨日淹れたままの冷えたコーヒーを見つめ、リビングのソファに座り込んだ。

 何が何だか、さっぱりだ。

 ふと、物音に気付いて顔を上げる。携帯のバイブ音だ。そうだ、愛の携帯がベッドのサイドテーブルに置いてあった。

 慌てて寝室へ入り、液晶の表示を見る。

『四対 さん』

 見るなりコールはすぐにやんだが、巽は無心で通話ボタンを押した。

『おはよう』

「なんだ、朝から」

『えっ!? おい、こっちこそなんだよ! 朝っぱらから人の携帯勝手に出て!!』

「お前には関係のないことだ」

『…………。代れよ、電話』 

 ふと、思い出す。愛は四対のことを覚えているだろうか。

「それどころじゃない」

『なんだよ……あれから帰らなかったのか!? もしかして!』

「いや、帰ってきたよ。お前の部屋から。ケーキの小箱を持って」

『……ケーキを一緒に作りたかったって嘆いてたよ。
 烏丸の件は悪かった。えらく叱られたよ』

「誰に」

『真籐の父親』

「あぁ……」

『で何?』

「愛が階段から足を滑らせて、頭を打って記憶喪失になっている」

『えっ!?……』

「今朝のことだ。俺のマンションで。俺は部屋に居たんだが、何を思ったか階段で下まで降りようとしたらしい。

 傷もあって10針縫ったがそっちは大したケガじゃない。年が明けて10日もしたら退院できるそうだが、脳の障害なのか、前後の記憶がない。いや、前後どころか、俺のことも覚えていない。家族のことは覚えていたが……」

『あんた以外のヤツのことは覚えてるのに?』

「……そうだな。古い友人のことも覚えていた」

『……悪い言い方だけど、あんただけを忘れてるって可能性は?』

「……そうではないと信じたいが……。その前に、数日もしたら元に戻るかもしれないとも言っていた」

『……一時的なやつじゃねえの? 俺の知り合いがそうだったよ。バイク事故で、ここはどこ私は誰ってなってさ。焦ったけど一週間くらいで元に戻ったよ。傷が治ったら自然に治った感じだった。頭をやられてたからな』

「…………、そうか……」

 一気に胸を撫で下ろす。あぁ、そういうものなのか……。

『で、どこの病院?』

 巽は一度床に視線を置いてから、

「……俺は面会謝絶されている。記憶の混乱を避けるためだと」

『え? ……なんで』

「病院で目が覚めた時、家族に対しては普通だったんだ。だが、俺に対しては全く知らない人物として見ていた。会話を続けようにも、どうにもならない状態だった」

『…………、…………ちょっとやばいのかもな……。ぼーっとした感じじゃなかった?』

「いや、意識ははっきりしていた。ただ、俺のことだけを忘れたのかと思ったほどだった」

『でもそうじゃねんだろ? ……、まあいいや。俺なら思い出すかもしれないし』

 そうかもしれない、と嫉妬心が一気に渦巻く。

『で、どこ?』

 だから、何でお前が……。

『俺が行っても知らねーってんなら、本当にそうなんだよ。確かめて来てやる』

 まさかお前のことは覚えていて、俺のことだけを忘れたなどあるはずがない。

『………、何、言わねーつもり? 俺にも会うなって言ってんの?』

「いや……」

 そういうわけじゃない。

『……あそう。じゃあ自分で調べるわ』

 あっさり電話は切れた。

 切れた瞬間、何故言わなかったんだと後悔する。ここで言ったって言わなくったって、入院先などすぐに調べはつく。

 嫉妬しているのを完全に見透かされた上に、バカにされた。

 そう感じて、持っていた携帯を、キラキラのストーンが付いた携帯を、まるでどうでも良いように、それでも傷つかぬようポイとベッドの上に投げ捨てた。

 
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