絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅴ

12月29日 上司としての見舞い

12月29日

 午後8時。なんとか会社から抜け出して来た宮下は、車を空いた駐車場に乗り入れ、走って病棟へ向かった。エレクトロニクスの本社が入っている中央ビルから10分ほどの国立病院なら、残業の合間でなんとかなる距離だった。

 一昨日の香月の兄と名乗る人物からの説明では、27日の朝に階段から落ちて頭を強く打ち、10針も縫う手術は成功したが脳内の詳しい事は検査中とのことだった。

 ただ、もう個室に移っているということは、大したことはないのだろう。

 本当は休みの昨日に一度来たかったが、正月の準備で妻の実家に出かけたりせわしなくしていたせいで、来そびれてしまった。

 今も手土産は何も持って来てはいないが、とりあえず今日は顔だけ見て、菓子折りは後でも充分だ。

 受付で聞いた通りの3階でエレベーターを降りるなり、顔を上げる。

「あっ」

 一目見て気付いた。榊医師だ。

「仕事、ですか?」

 第一声にふさわしいのかどうか考える間もなく、とりあえず相手が白衣だったのでそう尋ねた。

「ええ。今ここに研修で帰って来ています。良かった。あなたにご相談したかったことがあるんです。いや、これは本来家族が話すべきことですが……」

「他言はしません」

 宮下は、榊の目をしっかり見据えると、ある程度の覚悟を胸に続きを促した。

「こちらへ」

 榊は元来たであろう道を引き返し、宮下はそれに続いた。

 どこに居ても誰も来そうになかったが、榊は一度階段を下り、ナースしかいないことを確認してから診察室に入ると、丸椅子に座るよう手を差し出した。

「まだはっきりしたことは分かりませんし、今現状の段階のことです。数日ほどで回復する可能性も充分あります」

「はい」

 わけが分からなかったが、とりあえず、可能性の話をするという前置きを念頭に置いた。

「おそらく、過去5年ほどの記憶に障害が起きています」

「えっ!?」

 思いもよらない具体的な年数と事態に、宮下は自分でも驚くほどの声を上げた。

「5年!?ってことは……」

「エレクトロニクスに入社しているとは言っています。

 だが、この5年間に知り合った人物など全く覚えていない。

 この5年間が完全に抜け落ちています。

 大人になってからの5年ですから、大した支障はありません。

 車の運転もできるでしょうし、仕事も5年のブランクがあるわけではなく、5年前のままです。5年前と同じことなら、難なくできるでしょう。

 ただ、会話は時々……特にこの7年、近くで仕事をしていらした宮下さんなら、会話がちぐはぐになるでしょう。

 親兄弟との会話は普通でしたがそれは、この7年、ルームシェアをして実家にいなかったおかげでしょう」

「5年……私のことは覚えてるかな……」

「覚えていましたよ。

 会社の方の名前を何人か上げてもらった中に宮下さんはいました。

 彼女の中では今、25歳の12月のままです。本人には、今本当は30歳の12月だということは一応伝えていますが、半信半疑で飲みこめていないという状況です。昔のことを思い出そうとすると頭が痛くなるそうなので、無理に思い出さないようにと伝えています。

 私はそちらの専門ではありませんが、担当医によると、何かの拍子で全部思い出したり、または思い出さなかったり。誰にもその先は読めないそうです」

「…………」

「今日は会って行かれますか? 」

「……いいんでしょぅか……」

「あまり、今の状況はお話にならない方が。混乱の元になりますから。軽く挨拶程度で良いかと思います」

 そこで榊は立ち上がると、「行きましょう、3階です」と診察室から出た。

 今度は先ほどよりもゆっくり階段を上がる。

「私も、もしこのまま記憶が戻らなければ、私との思い出や友人達との思い出をいつかは伝えてやらないとと思うと、荷が重いです。嫌なことを乗り越えてきたはずなのに、記憶が消えたせいで、再び同じ話を蒸し返さないといけなくなる。

 ……言う必要があるのかどうか、迷いますがね……。

 でも突然、誰かから何の前触れもなく聞かされたら、ショックだろうし」

「…………、でしょぅね……。

 記憶が戻ったら、退院ですか?」

「いえ、傷が癒えれば大丈夫です。年明けて1週間後には退院できるでしょう。傷のことでも、記憶のことでも通院は必要になりますが」

「あぁ……そうですね……」

 この5年の記憶がない。

 それが一体どういうことなのか、よく吞みきれないままに、病室へ向かう。一歩前を行く榊医師は、相変わらず香月の周りにいて、この5年間の記憶をどう戻そうか悩んでいるようだ。

 香月のために身を粉にする人間はいくらでもいる。

 ドアの前に立ち、開いたままのドアを軽くノックする。

「ひさ……あ、宮下店長!」

 驚いたのはその表情だった。

 あぁ、そうだ。香月に宮下店長と呼ばれていたあの頃は、彼女は明るかった。白い肌にピンク色の頬、瞳はくるんと輝き、呼べば必ず良い返事をしてまるでよくしつけられた犬のように目の前に現れる。

「すみません私、こんな休むはめになってしまって……」

「……いや、仕方ない。会社の方は大丈夫だ」

「私、なんだかよく分からないけど、記憶がないとかなんかそんな風になってて」

 急に顔を顰め、元気がなくなった上に記憶がないことをどうフォローすればよいのか言葉に困ったのを察して榊医師が、

「まああまり気にせずに。急に思い出すかもしれないし。思い出さなかったら覚えていけばいいし。産まれた時に戻ったんじゃないから。字もかけるし読めるし、生活できるから大丈夫だよ」

「そうそう、大丈夫だ、香月」

 香月はっと顔をあげて俺の方を見た。

 そして、2、3度瞬き、視線を逸らす。

 ドキドキした。

 驚くほど、心臓が高鳴った。

 そうだった。昔、その視線に幾度となく戸惑い、そして溺れた。

「私……その、今は会社で何してるんですか?」

 どう答えようか迷ったが、そのままを伝えるしかない。

「本社にいるよ。営業部。俺と同じ課」

「えっ、また私、本社に行ったんですか!?」

 また、とはどういうことなのかよく分からず、ただ言葉に詰まった。

「えっ、あの、また私、本社に行ったんですか?」

 同じ事を繰り返し聞いたので、仕方なく

「またって?」

「またって……だから、またって……」

 そこで、微動だに動かなくなってしまい、慌てて、

「香月?」

 顔を覗き込むと、

「まあまあ、仕事に復帰はまだ早いよ。愛がいないとできない仕事もあるだろうけど、それは他の人に任せよう」

と、榊医師が香月の背中を撫でた。

 患者相手によくある、医者の慣れた手つきのようにしか見えなかったが、逆に香月はカッと赤くなって固まった。

「…………」

 それに気づいた榊医師はゆっくりと手を離す。

 香月も赤面しているのを隠すように、

「……本社なんて、役に立ってないと思うけどなあ……」

 ぼそっと、不安気に呟いた。

「まあまあ、先に身体を治してからだ。まずはそれに専念しよう」

 榊医師は俺に目配せしてくる。

 早くも制限時間が来たようだ。だがしかし、これ以上の会話も思いつかない。

「香月、悪い。仕事の途中で抜けてきたんだ。またゆっくり来るな」

「はい……あ、宮下店長。……あ、そうだ! 私、店の前にあるたい焼きが食べたいです!」

 嬉しげに手土産を注文してくるが、東都シティ店のすぐ目の前にあった小さなたい焼き屋はとっくに潰れてなくなっている。

「あ、あぁ……今度は何か持ってくるよ。今日は手ぶらで悪いな」


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