絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅴ
12月31日 お前がいなくちゃできないことが山ほどあるんだ
12月31日
この5年の間に何があったのか、正直俺はあまり覚えていない。もちろん、記憶としては阿紗子の死や、ロンドン旅行、結婚、子育てなど色々あったが、それがこの5年内だったかどうか、それ以前だったかと聞かれれば怪しくなる。
従って、どこまでの会話をすればいいのか……。
夕貴は一晩、悩みに悩んで、それでも自分達は昨日明日の友人ではないと自分に言い聞かせ、午前10時に病室に向かったのだった。
ひょっとしたら家族がいるかもしれない。いたとしたら、余計会話に困る。
たがその不安に反して、病室には誰もいなかった。
「夕ちゃん!!」
昨日悩んでいたことが一気に吹っ飛んだ。
「おお!!」
俺は嬉しくなって思わず両手を伸ばし、両腕に触れた。なんだ、いつもと変わりない。
大きく安堵し、ただその顔を見つめた。
「誰から聞いたの? 阿紗子から?」
イキナリその話題に触れて、思わず両手を離した。その上、汗をかくほど焦ったが、
「……いや、アイツから」
しれっと言い切る。実際そうなのだから仕方ない。
「そっかあ。連絡取ってるんだねー。昔は全然そんな風じゃなかったのに、最近になって?」
それは一体どういう質問なのか全く分からず、
「え、ああ。まあな、一大事だし。見舞いにくらい来たいと思うだろ」
「ありがと。暇なの。……でも、手ぶら?」
言われて初めて気付いた。
「わり……後で何か買ってくるわ……」
「今ねー、プリン食べたかったんだー」
「あぁ、駅前のか」
「違う―、スーパーの前の」
「えー? あそこ潰れたんじゃなかったっけ?」
「えっ? この前行ったんだけどな……」
既に数年前に潰れた洋菓子店の事をさらりとこの前と言ってしまうその感覚についていけず、5年間の記憶のことをどう処理すればいいか分からなくて、ただ焦って、
「えーっと、えっと、まあ俺の勘違いかもしんねーからそこも見てくるわ……。そこが無理だったら、駅前な」
駅前の店は随分新しく、建ってまだ一年も経過していない。
「駅前にもお店できたんだね……」
「いつできたのかは知らねーけどまあ、見て来るよ」
愛は、段々しゅんとなってベッドの先を見つめた。
言い方が悪かったのかもしれない。ここへ来てようやく、アイツに付いて来てもらえばよかったと後悔し始めた。
何の話題に触れればいいのか、何を言えば傷つけないのか、俺の結婚のことも話しておくべきなのか、それともそれはずっと後の方がいいのか……。
すぐに耐えきれなくなって、
「やっぱ先買ってくるわ、プリン。今食べたいんだろ?」
愛の顔があまりすぐれていないのは分かっていた。だけど、どうすればいいのか全く分からなくて……。
「うん…………ごめん、気遣うよね。記憶がないとか言われたら」
「…………」
いきなり本題に入られて、身動きがとれなくなる。
「夕ちゃんのことはちゃんと覚えてるよ。阿紗子のことも。本当に。5年の記憶がないって言われても、私には全然分からないの。朝起きて、5年経ってたって言われても、私には全然分からないの」
しまった……、泣かせた……。
無理に部屋を出ようとしたせいで……。
「…………そんなこと、カンケ―ねーよ」
涙声の愛を前に、俺はただ、本音をぶつけた。
「5年がなんだよ。知らねーなら知らねーでいいじゃねーか。俺とお前とは変わらない。アイツも。みんな変わらねーよ」
阿紗子だけは変わった。だけど、今はそんなことを言っている場合ではない。
「今は飯食ってゆっくりしてろ。な?」
俺はベッドに腰かけ、その、震える肩を片腕で抱いた。
妻とは違う匂いが全身に駆け巡る。
違う。
髪の毛が、流れるような美しい髪の毛が俺の頬に触れる。
違う、違うんだ。これは俺の物じゃない。
だけど、今だけは。今だけは俺が支えていてやらなきゃいけないんだ。
「俺はお前がケガしたっていうから見に来ただけだよ。いつもそうだよ。何年経ってもそうだよ。生きてる限りはお前のとこに来るよ」
そうなんだ。本当に、そうなんだ。
「大事だと思ってる。
お前のことを、いつも、ほんとに」
気持ちを込めすぎたせいで、目じりに涙が浮かんだ。
思わず、肩に回した手に力が籠った。
「俺にとって、お前は生きがいなんだよ」
ずっと前からそうだ。
「お前がいなくちゃダメなんだよ」
そうなんだ。生きている意味なんて、ないんだ。
「お前がいないと、俺が成り立たない」
俺を俺らしくさせてくれるのは、お前だけなんだ。
「お前がいなくちゃできないことが、山ほどあるんだ」
そうなんだ。ずっと前からそうだったんだよ。なのに俺は、いくらアプローチしても振り向かないお前の興味を、それでも惹こうと他の女と結婚までした。
子供も作って、そして俺は……お前とは違う道を歩みながら、お前を見守る選択をした。
そして、ずっとお前のことを……。
「事故に遭っても、生きてて良かったよ……ほんとに」
もう、葬式なんてまっぴらだ。
「……お前が俺のことを覚えていてくれて、本当に良かった……」
そうだ。
「多分俺は……お前に忘れられたりしたら、生きてはいけない」
巽のことを思う。その絶望は底知れないだろうが、実際、その絶望にはまったのはおそらく半分は自らのせいだ。
愛に尽くされながら、尽くさなかった罰だと。
俺が巽なら、愛をこんな目には遭わせなかった……。
いや、違う。
そうじゃない。
愛が……巽を選んだんだ。
そうなんだ。
俺は妻を選んだんだ。
そうなんだ。そういうことなんだ。
だけど。
だけど、今は。今だけは。
「愛……俺のことを覚えていてくれて、本当にありがとう」
そう言いながら、頭の匂いを嗅ぐように、俺は自らの顔を摺り寄せ、その嗚咽に紛れながら思い切り優しく、両腕で初めて、優しく抱きしめた。
この5年の間に何があったのか、正直俺はあまり覚えていない。もちろん、記憶としては阿紗子の死や、ロンドン旅行、結婚、子育てなど色々あったが、それがこの5年内だったかどうか、それ以前だったかと聞かれれば怪しくなる。
従って、どこまでの会話をすればいいのか……。
夕貴は一晩、悩みに悩んで、それでも自分達は昨日明日の友人ではないと自分に言い聞かせ、午前10時に病室に向かったのだった。
ひょっとしたら家族がいるかもしれない。いたとしたら、余計会話に困る。
たがその不安に反して、病室には誰もいなかった。
「夕ちゃん!!」
昨日悩んでいたことが一気に吹っ飛んだ。
「おお!!」
俺は嬉しくなって思わず両手を伸ばし、両腕に触れた。なんだ、いつもと変わりない。
大きく安堵し、ただその顔を見つめた。
「誰から聞いたの? 阿紗子から?」
イキナリその話題に触れて、思わず両手を離した。その上、汗をかくほど焦ったが、
「……いや、アイツから」
しれっと言い切る。実際そうなのだから仕方ない。
「そっかあ。連絡取ってるんだねー。昔は全然そんな風じゃなかったのに、最近になって?」
それは一体どういう質問なのか全く分からず、
「え、ああ。まあな、一大事だし。見舞いにくらい来たいと思うだろ」
「ありがと。暇なの。……でも、手ぶら?」
言われて初めて気付いた。
「わり……後で何か買ってくるわ……」
「今ねー、プリン食べたかったんだー」
「あぁ、駅前のか」
「違う―、スーパーの前の」
「えー? あそこ潰れたんじゃなかったっけ?」
「えっ? この前行ったんだけどな……」
既に数年前に潰れた洋菓子店の事をさらりとこの前と言ってしまうその感覚についていけず、5年間の記憶のことをどう処理すればいいか分からなくて、ただ焦って、
「えーっと、えっと、まあ俺の勘違いかもしんねーからそこも見てくるわ……。そこが無理だったら、駅前な」
駅前の店は随分新しく、建ってまだ一年も経過していない。
「駅前にもお店できたんだね……」
「いつできたのかは知らねーけどまあ、見て来るよ」
愛は、段々しゅんとなってベッドの先を見つめた。
言い方が悪かったのかもしれない。ここへ来てようやく、アイツに付いて来てもらえばよかったと後悔し始めた。
何の話題に触れればいいのか、何を言えば傷つけないのか、俺の結婚のことも話しておくべきなのか、それともそれはずっと後の方がいいのか……。
すぐに耐えきれなくなって、
「やっぱ先買ってくるわ、プリン。今食べたいんだろ?」
愛の顔があまりすぐれていないのは分かっていた。だけど、どうすればいいのか全く分からなくて……。
「うん…………ごめん、気遣うよね。記憶がないとか言われたら」
「…………」
いきなり本題に入られて、身動きがとれなくなる。
「夕ちゃんのことはちゃんと覚えてるよ。阿紗子のことも。本当に。5年の記憶がないって言われても、私には全然分からないの。朝起きて、5年経ってたって言われても、私には全然分からないの」
しまった……、泣かせた……。
無理に部屋を出ようとしたせいで……。
「…………そんなこと、カンケ―ねーよ」
涙声の愛を前に、俺はただ、本音をぶつけた。
「5年がなんだよ。知らねーなら知らねーでいいじゃねーか。俺とお前とは変わらない。アイツも。みんな変わらねーよ」
阿紗子だけは変わった。だけど、今はそんなことを言っている場合ではない。
「今は飯食ってゆっくりしてろ。な?」
俺はベッドに腰かけ、その、震える肩を片腕で抱いた。
妻とは違う匂いが全身に駆け巡る。
違う。
髪の毛が、流れるような美しい髪の毛が俺の頬に触れる。
違う、違うんだ。これは俺の物じゃない。
だけど、今だけは。今だけは俺が支えていてやらなきゃいけないんだ。
「俺はお前がケガしたっていうから見に来ただけだよ。いつもそうだよ。何年経ってもそうだよ。生きてる限りはお前のとこに来るよ」
そうなんだ。本当に、そうなんだ。
「大事だと思ってる。
お前のことを、いつも、ほんとに」
気持ちを込めすぎたせいで、目じりに涙が浮かんだ。
思わず、肩に回した手に力が籠った。
「俺にとって、お前は生きがいなんだよ」
ずっと前からそうだ。
「お前がいなくちゃダメなんだよ」
そうなんだ。生きている意味なんて、ないんだ。
「お前がいないと、俺が成り立たない」
俺を俺らしくさせてくれるのは、お前だけなんだ。
「お前がいなくちゃできないことが、山ほどあるんだ」
そうなんだ。ずっと前からそうだったんだよ。なのに俺は、いくらアプローチしても振り向かないお前の興味を、それでも惹こうと他の女と結婚までした。
子供も作って、そして俺は……お前とは違う道を歩みながら、お前を見守る選択をした。
そして、ずっとお前のことを……。
「事故に遭っても、生きてて良かったよ……ほんとに」
もう、葬式なんてまっぴらだ。
「……お前が俺のことを覚えていてくれて、本当に良かった……」
そうだ。
「多分俺は……お前に忘れられたりしたら、生きてはいけない」
巽のことを思う。その絶望は底知れないだろうが、実際、その絶望にはまったのはおそらく半分は自らのせいだ。
愛に尽くされながら、尽くさなかった罰だと。
俺が巽なら、愛をこんな目には遭わせなかった……。
いや、違う。
そうじゃない。
愛が……巽を選んだんだ。
そうなんだ。
俺は妻を選んだんだ。
そうなんだ。そういうことなんだ。
だけど。
だけど、今は。今だけは。
「愛……俺のことを覚えていてくれて、本当にありがとう」
そう言いながら、頭の匂いを嗅ぐように、俺は自らの顔を摺り寄せ、その嗚咽に紛れながら思い切り優しく、両腕で初めて、優しく抱きしめた。