サイレント・キス 〜壁越し15センチの元彼〜
「あの後、いつもみたいに家に帰ったんだけど、家に居なかったんだ。だから、会いに来ちゃったよ」
レジ袋から、順にお惣菜を取り出してテーブルの上に並べる朝比奈さんが言っているのは、紛れもなく奥さんのこと。
朝比奈さんが奥さんの名前を会話の中で出す事はない。それは、いつしか何かの決まりごとのようになっていた。
「……そうなんですね。すごくビックリしました」
「あはは。ごめんね、驚かせて。でも、まさか土曜日に凛花ちゃんに会えるとは思ってなかったから……嬉しくてさ」
「私もです。私も、会えて嬉しい」
私も、そんな奥さんの事情を探ったり、知ろうとしたりはしない。朝比奈さんの家庭には、一歩も踏み込まない。
これも、いつしか、決まりごとのような……暗黙の了解のようなものになっていた。
「ありがとう。昼には帰るけど、一緒にゆっくりしよう。あ、お皿とコップ、借りるね」
「あっ!私が出しま……」
「いいよ。凛花ちゃんは座ってて。場所分かるから取ってくるよ」
立ち上がろうとした私の両肩に手を置いて、私を再びソファーに座らせた朝比奈さん。
そんな朝比奈さんは、棚から取り出したガラスのコップを二つとお皿を手に戻ってきた。