サイレント・キス 〜壁越し15センチの元彼〜

オフィスの入り口前で他の社員と話しているのは、いつもと変わらない朝比奈さん。

朝比奈さんの身体がこちらの方に向こうとしたと同時に、私はまた視線を落とした。


「……しっかりしないと」


ただの部下を演じる。それは、今までと同じように、しっかりと演じきらなければならない。

朝比奈さんのために、私はすべての感情を押し殺して、一番なりたくない『ただの良い部下』を演じなければならない。


デスクに向き合い、資料を整えた。

大きく、でも、静かに呼吸をして心を落ち着かせると、私はすぐに仕事に取り掛かった。

いつもと同じように仕事をこなし、いつもと同じように過ごす。朝比奈さんと関わる事だけは出来るだけ避けるようにして一日を過ごした。


……しかし


退勤時刻が過ぎた静かな廊下を歩く私。そんな私の前方から、朝比奈さんがやって来たのだ。

ここから引き返すのも不自然すぎるし、だからと言って、このまま朝比奈さんとすれ違う事になった時、私はちゃんと部下を演じきれるだろうか。

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