サイレント・キス 〜壁越し15センチの元彼〜
「凛花ちゃん……」
「そろそろ、やめ時かなと思って。朝比奈さんも、そう言いに来たんですよね?」
頑張って口角を上げて、泣きそうだなんて察されないように、無理矢理笑う。
……どうか、見透かさないで。
「妻が……子どもを、授かったんだ」
「……そうなんですね。おめでとうございます」
朝比奈さんの口から初めて聞いた、奥さんの話。それも、とても幸せな話。とても、素敵な話。
「……ありがとう。それから、ごめん」
そう言った朝比奈さんの瞳が、ぐらりと大きく揺れた。
「どうして『ごめん』なんですか。私が朝比奈さんを振ったのに」
「……そうだね。ちょっと可笑しいか」
「そうですよ。おかしい」
朝比奈さんが少しだけ自然に笑ったから、自然と私にも笑いが溢れた。
「朝比奈さん……今までありがとうございました。そして、これからも……会社の部下として、よろしくお願いします」
「……うん。こちらこそ」
「……では、また明日」
「また明日」
にこりと笑って、頭を下げる。そして、部屋を後にした。
部屋を後にした瞬間、今まで堪えていた分の涙がまるで洪水のように溢れ出た。
これで、私が大好きな朝比奈さんとはもう会えない。
明日から私が会うのは、会社の『上司』である朝比奈さんだ。
明日から、私達の過去は消える。
明日から、私達が恋をして愛し合った事実は姿形なく消える。
明日から、私達は本当に『上司』と『部下』になるんだ────。