パドックで会いましょう
箸で切り分けた冷奴を口に運んで、おじさんは顔を上げた。

「そんなもん、必要ないからやろ。」

「必要ないから…ですか?」

「俺らは身内でもないし、友達っちゅうほどのもんでもない。競馬場で顔合わせるだけの関係や。ここにおる時以外の事なんか、どうでもええねん。アンチャンかて、普段俺がどこで何してるかなんて、知りたい思わんやろ?」

「どうかな…。」

気にならないと言えば嘘になるとは思うけど、おじさんの言う事は、わからなくもない。

普段どこで何をしているかとか、歳とか名前とか、一緒に競馬を観るだけの関係なら、必要はないのかも知れない。

でも僕は、ねえさんの事を知りたい。

どんな些細な事でも、知りたいんだ。

そして、ねえさんにも僕を知って欲しい。


おじさんはビールをグイッと飲み干して、空いたグラスにビールを注ぐ。

「人にはな、忘れたい過去とか、知られたくない自分があって当然や。だからあえて、俺らはお互いの事は何も聞かん。アンチャンはまだ若いから、わからんかも知れんな。」

「おじさんにも、ありますか?」

「あるある、なんぼでも。俺の場合な、なんぼ忘れたくても、忘れる事はできんのや。だから俺は、競馬場におる時だけは全部捨てて、ただの競馬好きのおっちゃんになる。」

おじさんは少なくとも、僕の倍ほどの年数を生きてきたはずだ。

いつも明るく陽気に見えるおじさんにも、忘れたくても忘れられないような、つらい経験をした過去があるんだな。



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