消えて失くなれ、こんな心
彼女に向かって手を伸ばすと、想像していたよりもずっと簡単に届いた。僕がいくら近づこうと、なぜか手をこちらに伸ばしてこなかった彼女。ただただそこに立っているだけで、僕に何かを訴えかけることしかしない彼女。だから僕の方から彼女の腕を掴んで、彼女をなんとか無理矢理こちらの世界に引っ張った。それは本当に一瞬のことで、彼女が遮断機の世界から出たと思ったその直後、電車がスピードを緩めることなく通り過ぎていった。間近でそれが通過するのを見て、ほっとすると同時に改めて思う。あと少し遅ければ、彼女もろとも僕も死んでいた、と。いじめられてもなお「死んでしまおう」なんていう考えを持たなかった僕にとって、あんな無機質なアレに殺されるなんてまっぴらごめんだった。
それにしても、だ。さっきから謎なことばかりなのだ。
鼓膜が破れそうなほど踏切のうるさい音に加えて、電車がこちらに向かってくる音だってそこにはあったのだ。それなのに彼女は、その場から逃げるどころか動こうとしない。僕が彼女に向かって走っていることに気がついた後も、何かを言っただけで手すら伸ばそうとしなかった。まるで自分はここにいるべきなのだと言うように、彼女は僕に引っ張られるまでその場を動こうとしなかったのだ。
大学生になっても、大学をさぼるようになっても、僕はばかなことをする人間に出会う運命なのか。そう考えてしまうのも、今の僕にとっては無理もなかった。けれども、こんなひねくれ者な僕でも、助けなくてはならないという感情がはたらいたということは、まだ僕にも正常な部分はちゃんとあるということだ。そういうことには少し、安心感を覚えた。
「君、大丈夫?」
幼い頃からいじめられてきた僕にとって見知らぬ誰か、しかも女の子に声をかけることに計り知れない勇気が必要だったのだけれど、短いながらなんとか話しかけることができた。彼女は力なく僕にもたれかかったままで、離れてくれそうにない。僕としては今すぐ自分の脚で立ってどこかに行ってほしいのだけれど。まあそんなことを言えるはずもなく、仕方なく彼女が動いてくれるのを待つことにした。
「大丈夫なわけ、ないじゃないですか」
返ってきたのは、僕が想像していた言葉とはかけ離れすぎたものだった。
僕の腕の中で小刻みに震える小さくて華奢な身体。なぜ遮断機の間にいなければならなかったのか。なぜこんなにも震える必要があるのか。僕にはその理由がさっぱりわからないのだけれど、どうやら彼女が落ち着くまではこのままの状態でいなければいけないようだということは理解できた。