消えて失くなれ、こんな心
違いますよ、と彼女は言った。依然として表情は無のままだった。僕を睨みつけるような瞳も、何の変化もなくそのままだった。
「あなたが死ぬということそのものが無意味だと言っているんです」
彼女はきっぱりとそう言うのだけれど、それでは僕の手段がなくなってしまう。〈僕〉は僕よりもずっと遠くへぶっ飛んだ発想を持っているようだ。きっと彼女が明確な言葉で言ってくれれば僕だって容易に理解できるし実行だってできるのだろうけれど、彼女は僕の頭の中で遊んでいるようにも感じた。彼女の言動が予想できないのは、やはり彼女は〈僕〉に過ぎないのだということであって僕自身ではないからなのだと思う。そして僕の考えることと彼女の考えることが不一致なのも、おそらくはそれと同じなのだろう。
彼女は〈僕〉であって僕ではない。僕は言うまでもなく僕であって〈僕〉ではない。もちろん彼女でもない。
きっと彼女は、僕と同じ時間を同じ空間で同じように歩いてきたに違いない。でもその中で生じる小さな違いが、僕と〈僕〉を分岐したのだ。その違いは砂漠で特定の一粒の砂を探すようなもので、僕と〈僕〉の過ごしてきた時間を照らし合わせたとしても答え合わせをすることは不可能だ。そもそもその間違いがいくつあるのかということさえもわからないだろう。
「例えばの話ですけれど、私が死にたいと今ここで言ったらどうしますか?」
昨日遮断機に入って電車を待っていた彼女が言ってしまうともはや例え話にならないのだけれど、まあそれには触れないでおくとして。
「僕は何もしない。君の好きなときに死ねばいいと思う」
何度も言うようだけれども、昨日彼女を助けてしまったのは不可抗力だ。死にたいという奴をわざわざ止めるほど僕は鬼じゃない。
「でしょうね」
僕がそう答えることを見通していたかのように彼女は言った。そして続ける。
「では――」
「私を殺してください、と言ったらどうしますか?」
彼女の言いたかったことがここでようやく理解できた。僕が死ぬのでは意味がないとはこういうことだったのか。死にたいと言う彼女を好きなようにさせるわけでもなく、かといって僕が誰かによって殺されるわけでもなく。僕が彼女の命を終わらせることによって、僕は初めて彼女に「僕は死を肯定している」と認めてもらえるというわけだ。
ああ、なんて皮肉なことなんだろう。僕が彼女の人生を終わらせてしまえば彼女はもうこの世にはいないわけで、そしてそれはつまり彼女に承認をもらうことができないということになる。彼女の出した問題は僕の想像を遥かに超えた難問だった。〈僕〉の方が上だった。そんなふざけた思考を持つなんて、一体〈僕〉はどんな時間を歩んできたのだろう。どんな世界を見て、その世界に何を感じてきたのだろう。僕と〈僕〉はどこで違ってしまったのだろう。