消えて失くなれ、こんな心
それは、小学6年生――卒業を目前にした3月のある日のことだった。
「きみさ」
少女が言った。
「自分の周りにいる人間のこと、ばかにしてるでしょ」
顔も名前も思い出せないけれど、声だけは今でも記憶の中にしっかりと佇んでいる。子供――それも女の子の声というものは、なんとなく鼻から出しているような妙に甲高い音で、僕はそんな音があまり好きではなかった。彼女の声も、その部類の音をしていた。だからきっと覚えてしまっているのだろう。あるいは忘れられないだけなのかもしれない。もっと言うと、あの耳障りでしかなかった少女の声を、忘れたくないのかもしれない。
ばかにしてるでしょ。
不思議とそれは、僕の胸の中にちょうどいい居場所を見つけたかのように抵抗もなくすっと入ってきた。
「そうかもしれない」
身体の芯まで冷やそうとしている夕日を背景に、僕は彼女を視界に入れた。僕にとってのその返事は、肯定でも否定でもなかった。
彼女がどんな表情をしているのかなんてことはよく見えなかったけれど、きっと笑っていたのだと思う。仲間を見つけた。きっと、そんな風に。そのとき僕の相本をすり抜けた微かな風に乗った彼女の声が、そう言っていた。
「テストの点数だとか勝ち負けだとか、そんなことで一喜一憂している意味が、僕にはわからない」
最近受けた国語のテストが、今日、返却された。クラスメイトのほとんどは近くに座っているやつら全員に「何点だった?」と声をかけまくり、相手の点数が自分のそれより一点でも高ければばかみたいに喜んでいた。一方、相手は相手で、ばかみたいに落ち込んでいた。
「私にもわからない」
何がそんなに嬉しいのか。何がそんなに悔しいのか。僕にはそれがわからなかった。情緒が不安定であるというわけではない。鈍感。ただ単にそれが行き過ぎているだけなのだと思う。嬉しい、楽しい、悲しい、苦しい。そういった感覚や感情に、僕自身が気づいていないだけなのだと思う。あるいは、追いついていないだけなのだと思う。
「わからないなりに考えてみたんだけど」
彼女が言った。
「人間の感情って、喜怒哀楽でできているなんて言うでしょ? その喜怒哀楽を失ってしまった人間は、きっと誰よりも強く生きられる気がするんだよね」
わからないなりに考えてそういう結論に至った彼女の表情は、背後にあるオレンジが生み出す影によって隠されてしまい、読み取ることができない。
小学生という無邪気な生物が生み出す残酷ないじめを受けていた僕にとって、それは魔法のような言葉だった。おまじないのような言葉だった。僕も、やつらも、感情の全てを消し去ってしまえばいじめなんて起きないのかもしれない。苦しむ人なんて、誰もいないのかもしれない。ただひたすらに、死へと向かって命を走らせるだけなのかもしれない。そこに嬉しさが生まれなかったとしても誰も損はしないし、哀しみが生まれないのならばそれはきっと全ての人間にとって得であるに違いない。
きっと彼女と言葉を交わすのはこのときが初めてだ。こんな考え方をする人話したことがないし、そもそも僕には話せるだけの友人なんていう存在すらいない。彼女の言う「自分の周りの人間」を、まるで僕だけが外の世界にいるかのように見つめるだけだったのだから。その輪に入ろうなんて思わなかったし、友達がいないという状況がつらかったわけでもなかった。
むしろこのままでいいと思っていた。友達がいないから何だというのだろう。友達を持っていなければならないなんていうルールはどこにもないじゃないか。このままでもいいと僕が思っているのなら、それでいいじゃないか。変える必要は、どこにもないんだ。
「きみは、どう思う?」
僕はどう思うのだろう。話題を振られるとは思っていなかったから、僕は思わず、言葉を濁した。
「僕は将来、その答えを知ることになるから、今考える必要はないよ」
その答えを知ることになる。一体どんな根拠があってそんな言葉が出てきたのかは僕自身もわからない。けれど、咄嗟に出てきた言葉がそれだった。なんとなくそうなる気もしていたし、答えを知ることもなく死んでいくような気もしていた。どちらにせよ、今の僕にはどうでもいいことで、今それを考える必要はこれっぽっちもないと考えていた。
どういうわけか彼女が話しかけてきたのはその日だけで、それ以降は会話をするどころか学校で会うことすらなかった。背丈も大きくは変わらなかったし、お互いに敬語を使って話していたわけでもないから、同級生だと勝手に思っていたのだけれど、とにかく彼女は僕の前に現れなくなった。けれど、会いたいと思うわけではなかった。なにせ僕は、20歳になった今でさえ、彼女から投げられたあの質問の答えを見つけることができていないのだから。
思えばあの頃から、僕の未来は決まっていたのかもしれない。