逃げ惑う恋心(短編集)
「千穂、どちらさん?」
隣の男が聞く。よ、呼び捨てだ!
「あ、いとこと、いとこの友だちです」
「ああ、例の」
例のってなんだ! 千穂ちゃんがおれたちのことを話しているってことか?
「初めまして。江口一誠といいます。千穂と同じ会社の、一応先輩です」
隣の男――江口さんは爽やかに笑って握手を求めてくる。
その手を握ると、また爽やかに笑って「俳優さんなんでしょ。さすがにイケメンだねえ、モテるでしょ」と言った。
「ちょっと、江口さん」
「ああ、ごめんごめん、悪気なんてないよ。ただ俳優さんだけあって、ふたりともかっこいいからさ、ついねぇ」
悪気なんてないと言うわりに、そういう風に聞こえてしまうような口調だった。
「こんなイケメン俳優が近くにいるなら、女の子たちが紹介してくれって言う理由が分かるね」
「江口さん、怒りますよ」
千穂ちゃんはちょっとむっとして、江口さんの背中をたたく。そんな千穂ちゃんを見たのも初めてだった。
「ごめんごめん、怒らないで。もう何も言わないよ」
「頼みますよ、もう……」
おれは居心地の悪さを感じて、ちらと友ちゃんのほうに目をやる。友ちゃんはさっきから一言も発せずに、不機嫌な顔でじっと江口さんを見つめていた。
「じゃあ俺は帰るから。千穂、資料まとめといてな」
「はい、分かりました」
江口さんは踵を返したけれど、思い出したように振り返って、懐から何かを取り出す。名刺だった。
そして爽やかに笑いながら「悩みがあったらいつでも言って。千穂の先輩として力になるよ」と、おれと友ちゃんに名刺を渡したのだった。
「江口さん!」
千穂ちゃんのぐーぱんちを二の腕にもらった江口さんは、笑いながら、爽やかに帰って行った。