逃げ惑う恋心(短編集)



「千穂に振られたよ」

 千穂ちゃんの会社から少し離れたカフェ。爽やかに現れた江口さんはそんな風に切り出した。

「え、だって、前向きにって……」

「これからも良い先輩と後輩でいさせてくださいって言われた。だからきみと親戚になることはないよ、安心して。そんなこわい顔してないでさ」

 あれ、おれこわい顔してた?
 慌てて自分の頬を擦って、できるだけリラックスしようとする。顔、ほぐれたかな。鏡がないから分からない。

「それで本題なんだけど。最近の千穂のこと、だよね」

「はい」

 何を言わずとも江口さんは分かっているみたいだ。三十代になると、そんなエスパーみたいなことができるようになるのだろうか……。友ちゃんって何歳だっけ……。おれのふたつ上だから、三十一? ええっ?

「最近、千穂のいとこが役者をやっているっていうのが、女子社員たちの間で広まってね」

「え、それ……おれのことです、よね?」

「そう。最初は役者をやっているらしいってところから始まったんだけど、情報ってのはありとあらゆる所から漏れる。名前や顔や出演作までね」

「はあ……」

「平澤くんが特定されるまで何日もかからなかったよ。まあ同じ名字だし、調べるのは簡単だったろうけどね。そして次に女子社員たちは、きみの交友関係を調べた。共演者だとか、よくブログに登場する友だちとかね」

「はあ……」

「そのあと千穂のところに、きみやきみの友だちを紹介してくれと殺到した」

「え、紹介って……」

「凄かったよ。休憩中や退勤後、千穂の周りに女子が群がっていてね」

 そのときの様子を思い出しているのか、江口さんは苦笑いしてコーヒーを啜った。

「いとこと言っても親しいわけじゃないからって千穂は断っていたけど、ひとりだけ諦めきれない子がいてね」

 うーんなんつったかなあ、と江口さんは唸ったけれど、すぐに思い出したらしく、びしっと人差し指を立てて言う。

「ヤナセさんを紹介して、どうせ春泉くん繋がりで知り合いなんでしょ」

 ヤナセさん。友ちゃんのことだ。

「千穂は同じように、春泉くんとはそんなに親しいわけじゃないからって言って断ったんだけど。その子は携帯を出してきみのブログを見せながら、しょっちゅう夕飯作ってしょっちゅう舞台を観に行ってるのに親しくわけないって言い張ってね」

「え……」

「写真の隅に千穂のバッグや携帯が写ってたんだってさ。よく見てるねえ、ファンってのは」

 しまった、と思った。
 たまにブログに「ごはんを作ってくれるいとこ」のことを書いてしまっていたからだ。作ってくれた料理も載せていた。けど、千穂ちゃんの私物が写ってしまっていたなんて……。

「千穂が何度も断っていたら、あなただけ春泉くんもヤナセさんも独占しようとしてるんでしょ、あんたなんかとヤナセさんがもし付き合いでもしたら絶対許さないから、と言い放ったわけ」

 江口さんの棒読みのお陰で臨場感はなかったけれど。おれの知らない所でこんなことが起きていたなんて……。

「千穂もわりとショック受けたみたいで。でもきみたちには話せないことだから、先輩として相談に乗ってたんだ」

「千穂ちゃんは、なんて?」

「役者と一般人は仲良くなりすぎてはいけないだとか、春泉くんはいとこだから最低限のことはするけどヤナセさんとはもう会えないだとか。とにかくごちゃごちゃ言ってたよ」

 役者と一般人のくだりならおれもちょっと知っている。友ちゃんと千穂ちゃんが喧嘩したときの内容だ。




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