逃げ惑う恋心(短編集)
江口さんからメールが届いて三十分。指定された居酒屋に着いた。
千穂ちゃんが働く会社からすぐ近くにあるその店は、よくみんなで来る場所らしい。個室だからはしゃいでも見られる心配がない、と江口さんは笑っていたけれど。江口さんたちはいつもお酒を飲んではしゃいでいるのだろうか……。
入る前に「着きました、今から入ります」とメールを送ると、数十秒で「了解」と返信が届いた。
友ちゃんと顔を見合わせてから、店の中に入る。すぐに店員さんがやって来て、江口さんの名前を出すと、奥に案内された。
友ちゃんはずっと黙ったままだった。話すことを考えているのか、緊張しているのか、おれには分からないけれど……。
なぜだかおれも少し緊張していた。もしかしたら、本番前より緊張しているかもしれない。
個室の前まで来ると、お洒落なのれんの向こうから千穂ちゃんと江口さんの声が聞こえた。
その声を聞いた瞬間、緊張はピークに達して、のれんに伸ばした手が震える。
「おお、来たか」
顔を覗かせると同時に江口さんが言って、サラダを頬張っていた千穂ちゃんは、顔を上げて驚いた顔をした。
「なんて春くんが……。江口さん、どういうことですか?」
「いやあ、昼間ばったり春泉くんと会って、話してたら意気投合してな。夜一緒に飲もうよってことになったんだ。迷惑だったか?」
「いえ、迷惑では……」
「なら良かった。じゃあ俺は千穂の隣に移動するから、入りなよ春泉くん、柳瀬くん」
「えっ?」
友ちゃんも来ていることは予想しなかったらしい千穂ちゃんの表情が、一瞬にして曇る。
「春くんもグルなのね……」
「え、な、なんのことぉ?」
完全に棒読み。役者失格だ。
とにかく友ちゃんを奥の席に押しやって、おれも席につく。
千穂ちゃんは頭を抱えていた。千穂ちゃんのことを思ってやったことだけれど、騙したことに代わりはない。ちょっと胸が痛んだ。
胸は痛いが、次の作戦に移らなければ。千穂ちゃんと友ちゃんをふたりにするのだ。
まず江口さんが「ふたりも来たことだし、俺ちょっとトイレ行くわ」と立ち上がって、おれも「明日のスケジュール、確認するの忘れてた、ちょっと電話してくる」と立ち上がる。が。
がし、と腕を掴まれた。
見ると友ちゃんが無言でおれの腕を掴んでいた。向かいの席では千穂ちゃんが江口さんの腕を掴んでいる。
「え、でも……」
おれたちがいたら、話しにくいこともあるだろう。
「いいから……」
いいからと言われてしまえば、ここにいるしかない。
江口さんと顔を見合わせて、再び腰を下ろした。
千穂ちゃんはずっと気まずそうな顔をしていた。友ちゃんもだ。
最近は顔を合わせる度、いや顔を合わせていなくても喧嘩のような状態になっているから、言葉を選んでいるのだろう。
新鮮だな、と思った。
いつもにこにこしている、大事ないとこの千穂ちゃんが。
いつも自由で、笑いと話題の中心にいる友ちゃんが。
気まずそうな顔で黙り込んでいるなんて。