逃げ惑う恋心(短編集)
その恋心は罰金刑
「一之瀬さん、化粧直し中に申し訳ないんですけど……」
ソワレ公演前。荷物でぐちゃぐちゃの鏡前で化粧の直しをする一之瀬さんに話しかけると、鏡の中で目が合った。
ちなみに開演十分前。衣装はすでに着ているからいいものの、もう舞台袖に行かないとまずい状態になっている。
しかもそんな状態なのに、一之瀬さんは呑気に大ちゃんの鏡前にあったお菓子を取って口に放っているし。大ちゃんに怒られてしまえ。
「なになに、どんな笑い話?」
「笑い話じゃないです、化粧続けてください」
「そうなの?」
一之瀬さんが鏡に向き直るのを確認してから、傍らに置いたぶたの貯金箱を手に取る。
「いよいよ明日のマチソワを含めて、三公演ですね」
「うんうん」
「稽古から今日まで約一ヶ月、一之瀬さんが遅刻するたび千円入れていた遅刻貯金。もう十三万円貯まったみたいですよ」
「え、そうなの? すごいねえ」
「いや普通に考えておかしいですから。毎日四、五千円くらい入れているんですよ?」
一之瀬さんの遅刻癖はもはや、スタッフ、キャスト、周知の事実だった。
じゃあそれを直すために遅刻ごとに罰金千円という、地味にリアルな金額を提示したのは、過去に何度も一之瀬さんの遅刻に苦しめられてきた演出家の先生。
遅刻の定義は厳しく設定された。これによって一之瀬さんがきびきび準備してくれればと、ごく些細な遅れにも罰金を科したのだ。
一之瀬さんは快諾したけれど……。
稽古に遅れて千円、台詞のタイミングに遅れて千円、休憩から戻るのに遅れて千円、着替えに手間取って千円……。
公演が始まってからはひとつの遅れに二千円と値上げされ、新たに、開演押しは三千円、出とちり三千円も加わって、遅刻貯金は十三万円にまで膨れ上がっていた。
明日は千穐楽だけれど、この調子じゃあさらに増えてしまいそうだ。