逃げ惑う恋心(短編集)
なにもかもが不慣れな状況に陥ったわたしは、事もあろうか近くにあった大ちゃんの台本をひっ掴み、台詞の確認を始めた。まずい、長台詞飛んだ。ほんとに飛んだ。
「千代ちゃん大丈夫?」
「だ、大丈夫じゃないです!」
「温泉より遊園地とか水族館のほうが良かった?」
「て、ていうかこのタイミングでネタばらしやめてください!」
「ごめんごめん」
一之瀬さんは笑って、わたしの手を引く。
舞台袖までダッシュ。初体験だ。
これからお客さんの前で演技をするっていうのに、始まる前から汗を流し、息を切らしているなんて。到底信じられる状況ではない。
でも、始まる前にこれだけは。
「いち、一之瀬さん!」
「なになに?」
「……あとで、スケジュール確認します」
口にしたら、一之瀬さんは驚いたように目を見開き、すぐにへらっと笑って頷いた。
飛んでいた台詞が頭の中に戻ってきて、ようやく落ち着いて舞台に集中できそうだ。
一之瀬さんとわたしはすっきりした表情で、舞台袖で焦るキャストたちの輪に加わり、直後、時間通りに幕が上がった。
とりあえず舞台が終わったらスケジュールの確認と、遅刻したわけではないけれど迷惑料、ふたりで六千円を、ぶたの貯金箱に入れようと思った。
(了)