逃げ惑う恋心(短編集)
恋の始まりは桃色に染まる
三日前から舞台の稽古が始まった。
なかなか若いカンパニーで、最年長はオレ。と、もうひとり、坂本留美さんって女の子。
だから三日目にしてオレはすっかりお兄さんポジションになり、坂本さんはお姉さんポジションになっていた。と言っても、お兄さんとお姉さんは、まだ会話をしたことがない。
おはようございますとお疲れ様でした、がこの三日の会話バリエーションだった。
一緒に演るシーンがあれば、ここはこうしようとか話すんだろうけど。二幕までほとんど絡みはなし。
最年長として、コミュニケーションをとったほうがいいってのは分かるんだけど……。オレも台詞覚えたり、初舞台で緊張する後輩の居残り稽古に付き合ったり、些細なことで口論していたやつらの仲裁をしたりで、なかなか……。
が、四日目の休憩中に近付いてきた坂本さんが、急に「しぃちょん」とにこにこしながら言って、ぎょっとした。
「え、え……?」
今までおはようございますとお疲れ様でしたしか言葉を交わしていなかったのに、急に、しかもあだ名で。
「しぃちょん、あのね、親睦会をしようと思うんだけど、今日大丈夫?」
あまりにも普通にそう切り出したので、オレも動揺を隠して「大丈夫」と返した。
ていうか、ええ? オレあだ名教えたっけ? 顔合わせのときあだ名言ったっけ? ていうか前にどこかでお会いしましたっけ?
「良かった。初舞台の子も多いし、みんなまだ緊張してぎこちないから、やっぱり親睦会はしておかないとなって」
考えていることは同じだったけれど、行動力は坂本さんのほうが上だったみたいだ。
「座長じゃないけど、しぃちょんとわたしが男女の最年長だから、引っ張って行かないとなって。カンパニー最年長なんて初体験だから、わたしも頼りないと思うけど」
「いや、そんなこと……。ていうかごめん、そのしぃちょんって……」
会話を続けようと思ったが、我慢できなかった。
坂本さんははっと息を飲んだあと、柔らかく笑う。
その隙に、動揺で額に滲んでいた汗を右手で素早く拭った。