逃げ惑う恋心(短編集)
「ごめん、馴れ馴れしかったよね。この間まで大ちゃんや圭吾くんと一緒だったの。それで次の舞台は清水くんとわたしが男女の最年長らしいって話をしたら、しぃちょんは良いやつだからって色々エピソードを教えてくれて」
大ちゃんと圭吾くんがずっとしぃちょんしぃちょん言ってたから、いつの間にか移っちゃった。ということらしい。
坂本さんはそう説明してくれたけれど。エピソードってなんだ。変なこと教えてなきゃいいけど。大ちゃんと圭吾くんのことだから不安だ……。
「嫌だったら清水くんって呼ぶね」
「や、別に嫌ってわけじゃないけど」
「ほんとに? 良かった。じゃあ改めてしぃちょん、これからよろしくお願いします」
差し出された彼女の右手を、数拍置いて握ったら、小さいが温かい手だった。
ああ、まずい。さっき拭った汗が手についたままだ。きっとべとっとしている。きっとじとっとしている。
彼女もそれに気付いたみたいだけど、嫌な顔ひとつしないで「聞いてた通り、しぃちょんって素敵なひとだね」と言って笑った。
心臓を、鷲掴みにされたかと思った。
何か返そうと口を開きかけたところで稽古再開の声がかかって、オレと坂本さんの手が離れる。
フロアの真ん中に移動する間、オレはばっくんばっくんとうるさい心臓を揉んで、どうにか落ち着こうとした。
まさかこんな、初恋の中学生みたいなことになるとは。
ふうと息を吐いたら少し楽になったのに、彼女がオレを見上げて「しぃちょんも、名前で呼んでいいからね」と言うから、今度は心臓が壊れるかと思った。
稽古、本番、千穐楽まで……。こんな調子でもつのだろうか。
とりあえず、ちゃんとオレから話しかけてみよう。
「あのー、その、留美、ちゃん」
「うん?」
「あのー、どうでもいいことなんだけど、発音が、ね」
「発音?」
「しぃちょんじゃなくて、しーちょん……。いや、どうでもいいんだけどね、ほんと……」
「え、ごめん! しーちょんね、しーちょん!」
手を合わせてごめんねと言う彼女を見下ろしたら、ああこれオレ千穐楽までもたねぇわと唐突に理解して、何も言わずに肩を竦めた。
今度は頬が、やけに熱かった。
(了)