逃げ惑う恋心(短編集)
「ええと、柳瀬さん……」
「うん?」
「その……。わたしの名前、憶えていますか?」
「はあ? なにその頭の悪い質問」
途端に柳瀬さんの表情が歪む。怪訝。そんな表情だった。
でもすぐに「千穂だろ」と答えてくれた。
良かった、憶えてはいてくれるんだ。
「憶えていてくれたならそれでいいんです」
「それでいいって……。また誰かに何か言われたか?」
「いえ、何も」
「冗談だろ?」
「ほんとに何も言われていませんよ」
「じゃあ俺が名前を憶えているか気になって変な顔してたって?」
「そういうわけではないんですが……」
言うと突然、鳴瀬さんが顎を鷲掴みにして上を向かせるから、わたしは「ふごっ」と情けない声を出した。
何事かと思っていたら、彼はわたしの目をじっと見て、探るように顔を覗き込んでくる。
そうしていたら、テーブルの上にあった柳瀬さんの携帯が震え出した。それがヒントになってしまったらしい。
柳瀬さんはちらとそちらを見て、すぐ視線をわたしに戻し「名前か」と呟いた。
「そういやお前が変な顔し始めたのは携帯鳴らしてもらってからだもんな。どうせ登録名が名前じゃなかったから、それ気にしてんだろ」
ずばり当てられてしまった。
でもこれだけのヒントで当ててしまう柳瀬さんは普通に凄いと思う。これから先、この人に隠し事なんてできないような気がした。
気まずさで苦笑すると、柳瀬さんはようやく顎を解放してくれて、テーブルの上の携帯に手を伸ばした。
てっきり着信に応答するのかと思ったのに、柳瀬さんは「なんだ春か」と呟くと容赦なく電話を切り、何やら操作し始める。あああ、春くんごめん。
そしてすぐにディスプレイをわたしに見せた。そこにはちゃんと「千穂」の文字。
あっさりと、わたしの登録名が「春のいとこ」から「千穂」に変えられたのだった。