逃げ惑う恋心(短編集)
びっくりした。心臓を、氷の杭で打ち抜かれたような気分だった。
千穂ちゃんが、スーツ姿の男のひとと歩いている。
おれが知っている千穂ちゃんの笑顔よりも、ちょっとだけ大人っぽい笑顔で。
「デートか?」
「ち、違うでしょ。だってまだ夕方……。会社のひとかも」
「肩に手ぇ回ってるけど」
「ひ、人ごみだからじゃない?」
「人ごみだからって、セクハラだろ」
「セクハラだね……」
「やっぱ恋人なんじゃねぇの?」
「ノーコメント……」
どどどど、どうしよう。なんだかすごくまずいところを見てしまった。千穂ちゃんに恋人だなんて。絶対に認めたくないけれど、でも、でも、昨日も舞台のあと会社に戻るって言っていたし。もしやあのひととデートのために戻ったんだとしたら? 恋人ができたから、急に千穂ちゃんらしくないことを言い出したのかも。もしそうなら、どうしよう、おれ、おめでとうって言う自信、ない……。
動揺を隠すようにもう一口コーヒーを啜ると、隣で友ちゃんが「おめでとうって伝えておいて」なんて言った。
「絶対いやだ、認めたくない」
「お前はおとーさんか」
いや、ほんとに。娘に彼氏を紹介されたお父さんの気分を味わってしまった。
コーヒーを置いて、震える手を見られないようテーブルの下に隠し、ガラス越しに、遠ざかっていく千穂ちゃんの背中を見つめる。
「友ちゃんさあ……」
「なんだよ」
「千穂ちゃんのこと、どう思ってる?」
「どうって、春のいとこだろ」
「だよね……」
やっぱり、盛り上がっていたのはおれだけ。
友ちゃんは千穂ちゃんのことをおれのいとこだとしか思っていないし、千穂ちゃんが誰だか分からないひとに肩を抱かれて歩いていても、何とも思わないんだ。
そうだよね。だって友ちゃん、千穂ちゃんのこと「春のいとこ」とか「あいつ」とか呼ぶもん。名前で呼んでいるのなんて、見たことがない。