逃げ惑う恋心(短編集)
「じゃあ俺からまずひとつな」
「え?」
「俺にだけ名前で呼ばせてずるくなーい? 千穂ちゃんこそ、俺の名前憶えてるのー?」
柳瀬さんは悪戯っぽく、からかうように、にやりと笑いながらそう言った。
「お、憶えてますよ、ゆうすけさんですよね」
「漢字で書くと?」
漢字、だと……? この質問は予想外。チラシやポスター、DVDのパッケージで見た柳瀬さんの名前を必死で思い出してみる。
たしか友情の友に……、助? 介? 輔? 祐? 佑? だめだ、すけの候補が多すぎる!
「ほらねー、やっぱり憶えてないんだもんなー、恋人の名前をちゃんと憶えてないなんてひどーい」
「なんなんですか、そのキャラ……」
言うと柳瀬さんはふはっと笑いながら後ろ手をつき「つまりはこういうことだろ」と。
「俺だってお前に名前で呼んでもらいたいって思ってたよ。ずっとな。だけど無理強いしたくなかったし、いつか自然と呼んでくれるんじゃねえかって期待してた」
「言ってくれれば良かったのに……、あ……」
「な? つまりはそういうこと」
「お互いさまってことですね……」
「そう。だからお互い、何でも言っていこうぜってこと」
「ですね……」
ようやくわたしが頷いて、それを見て柳瀬さんは笑って、でも「あーかっこ悪」と情けない声を出して、床にばたりと倒れ込む。
わたしも柳瀬さんのすぐ横に倒れ込んで「お互いさまですよ」と声をかけた。
「少しずつ、話していけたらいいですね」
「少しずつ、な」
焦ることはない。少しずつお互いのことを話して、知っていけたらいい。わたしたちはまだ、始まったばかりなんだから。
だからまずは、気を使わずに第一歩。
「漢字の答え、教えてください」
「友情の友と、人偏に右って書いて佑」
「ああ、たすけるって字ですね。友だちをたすける。良い名前ですね」
「名前通りの行動をするなら、ちゃんと春に電話かけ直さなきゃなあ」
「それは是非かけ直してあげてください」
「かけ直す、けど、その前に千穂、ちょっと抱き締めさせて」
そう言って柳瀬さんは、寝転んだわたしの背中を引き寄せ、自分の胸に押し付けた。
(了)