逃げ惑う恋心(短編集)
千穂ちゃんがエコバッグ片手にうちに来たのは、その次の日のこと。
早速エプロンをつけて料理を作ろうとした千穂ちゃんを引き留めて、リビングに正座させる。おれも正面に正座した。
「昨日の男は誰なんだね」
「お父さんみたいだね、似合わないよ春くん」
あははと、千穂ちゃんはいつものように笑う。
「はぐらかさないでよ! おれずっとはらはらしてるんだから!」
「ていうか昨日の男って何?」
「昨日! 新宿で! スーツ着た男のひとと歩いてたでしょ! 肩抱かれながら!」
千穂ちゃんは難しい顔で考え込んで、すぐにはっとした。
「やだ、見てたの?」
「見てたよ! おれ近くのカフェで撮影だったんだもん!」
「あれ会社の先輩。一緒にクライアントの所に行って、その帰りだったの」
「それだけ?」
「それだけ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「もうはらはらしなくていい?」
「落ち着きなよ」
息を吐いたら全身の力が抜けた。とりあえず良かった。あのひとは恋人じゃないみたいだ。
「心配性だね」
「心配もするよ、いとこだもん。あ、でも千穂ちゃん、肩に手ぇ回すのはセクハラだから、もうさせちゃだめだよ。友ちゃんも言ってたよ」
「柳瀬さん……?」
一瞬。ほんの一瞬だったけれど、千穂ちゃんの表情が強張る。何年一緒にいると思ってるんだ。それくらいの変化はすぐ分かる。
「柳瀬さんに、話しちゃったの?」
「ううん、昨日の撮影一緒だったの。その休憩中に見ちゃって」
「そっか……」
「うん……」
「……ごはん作るね。今日はとんかつ。力つけなきゃね、もう台詞甘噛みしないように」
「あ! それ言わないでよ!」
千穂ちゃんの表情が強張ったのはほんの一瞬で、すぐにいつもの表情に戻ったけれど……。
千穂ちゃん変だよ。この間から、友ちゃんのことになると、いつもの千穂ちゃんじゃないみたいだ。
やっぱり友ちゃんと何かあったんじゃないかと思ったけれど、それを聞く勇気が出なかった。