ニコル
顔壁
 生徒が誰も来ない保健室は本当に静かだった。校庭で行われている体育の授業の声、音楽室で歌われている声、それらが少しだけ聞こえてくるだけだった。瞼を閉じると、自分が学校にいる事なんて忘れてしまいそうだった。
 堺はそんな中でもうすぐ行われる全校一斉健康診断に関する書類を書いていた。
 いつもなら、体育でけがをしたとか、気分が悪いとか誰かしら保健室に来て、なかなか書類がはかどらないのだが、今日は違っていた。
 「平和ね。」
 堺は書類を書く手を休め、校庭の木々を眺めながら呟いた。そして、浩二がそうだったように、春の日差しの心地よさを全身で感じていた。
 コーヒーでも飲もうと席を立った。インスタントだけれども、それなりにコーヒーの香りが保健室に拡がった。その時、それまではっきりと見えていた堺の影が徐々に、そして全く映らなくなった。
 「曇ってきたのかしら。」
 振り向いた堺は、目の前にある光景を理解する事が出来なかった。
 ガラス窓の外には無数の男の子の顔がビッチリと張り付いていた。そして、それは紛れもなく生きていた。堺が右に行けば右に、左に行けば左に視線が動いていた。
 そこまで観察して、堺はやっと自分がいかに異常な状況にいるかを理解した。コーヒーカップを持つ手が激しく震えた。
堺の手はコーヒーカップを支える事が出来ずに、叩き付けるかのように落としてしまった。コーヒーが床一面に拡がった。自分の体を支える事も出来なくなり、堺は拡がったコーヒーの上へ倒れた。着ていた白衣がゆっくりと茶色く染まっていった。
< 34 / 155 >

この作品をシェア

pagetop