君だけはあきらめない【ある夏の一日】
ある夏の一日
「ほら、ここだよ」
達也が車を止め、窓から外を見上げる。
「すごい。翔(カケル)も見てごらん」
園子はベビーシートに座る翔に話しかけた。
達也がドアを開けると、濃い緑の香りがどっと車内に流れ込む。湿気を含む、山の空気。
園子もチャイルドシートのベルトを外すと、柔らかくて甘い匂いのする翔を抱き上げ、外に出た。
翔のブルーのポロシャツが汗で湿っている。
「おうちついたら、着替えようか」
園子は頬にキスしながら言った。
三メートルほどの高さの石積みの土台。その上にはよく手入れされた木々が、夏の風に枝を揺らしている。その石の間を縫うように階段があり、そこを登ると鉄製の門。その横に「山科山荘」という看板が立っていた。
「ありがとうございます」
門の横に立っている、六十代半ばの女性に、達也は頭を下げる。
「お部屋はお掃除しておきました」
エプロンをつけた女性はそう言うと、懐かしそうに目を細め達也を見た。
「おぼっちゃま、大きくなられて」
「菅野さん、『おぼっちゃま』だなんて、呼ばないでくださいよ」
達也は少し照れくさそうに頭をかいた。
「おぼっちゃまは、いつまでもおぼっちゃまですよ。あんなに小さかったのに、こんなに立派にられて。奥様とお子様まで」
達也が園子に手を伸ばすので、園子は階段を二歩ほど登って達也の隣に立つ。
「妻の園子と、息子の翔です」
「まあ、かわいい」
菅野さんはにっこりと微笑んで、翔の小さな手のひらを指でちょんと触った。
「おぼっちゃまの小さな頃にそっくり」
「そうかな」
「ぱっちりとしたお目目で賢そう」
菅野さんは達也に視線を向ける。
「本当に……」
嬉しそうに笑った。「時は巡るんですね」
「奥様、御用があったら遠慮なくご連絡ください。私はこの坂を下ったところの家におりますので」
「ありがとうございます」
園子は笑顔で頭を下げた。