命をかけて恋をした、ちっぽけな少年の物語
今年、大学2年になった早坂 翔は地下鉄の駅のエスカレーターを上る。
夜遅くまで遊んでいた友達と電車で別れてきたところだ。
小さい頃から感じていたが、誰かと一緒にはしゃいだ後、仲間と別れる瞬間というのはなんだか切ない気持ちになる。
朝まで遊んでいたい気持ちはあるものの、大学の講義やらバイトやらで途中で帰ってしまうメンバーが多かったので、翔も帰宅することにした。
明日は朝から講義もないのでゆっくり寝られるなと思い、肩が少し軽くなる。
住んでいるアパートに着くと、月の光に反射して目を淡い黄色に光らせた野良猫が出迎えてくれた。
この猫はこのアパートの階段の裏に住み着いているらしく、このアパートの大家さん公認の野良猫で、名前はミケだ。分かるかと思うが、この猫は三毛猫だ。ついでに大家さんはエサまで毎日やっている。
翔は、そこまでするなら飼ったらどうだと思ったが、当然お世話になっている大家さんに言えるはずもなく、住み始めた去年の春からずっと過ごしてきた。
「ただいま、ミケ…。元気してたか?」
翔はそっと、ミケの顎を撫でた。ミケは心地よさそうに目をつむった。
ミケを見ていると、疲れが癒える。
暖かい風にたなびく雲の隙間から月明かりが照らす。
「じゃあなミケ。また明日な」
ミケはニャーと、小さく返事をして階段の下へ戻っていった。
翔はギシギシと音を立てながら階段を登り、部屋の前にたどり着いた。
本の形をしたキーホルダーがついた鍵を鍵穴に入れる。古くなった鍵穴を開けるにはコツがいるのだと最近知った。
なぜ本の形のキーホルダーかって?
実は、翔は小説家を志望しているからだ。
何か賞を取ったのかと問われると返答に困ってしまうが、本が好きな気持ちは本物だった。
小学五年生の時、全国作文コンクールで金賞をもらった時からだろうか。翔も人間なので、周囲の人間よりも自分に優れていると思っていた。
そんな考えが、翔の身から滲み出ていたのだろう。
六年生になる頃には、翔はクラスで完全に浮いてしまった。孤立と言っても、いじめられるのではなく、相手にされなくなるといったケースの孤立であった。
今までは自信に満ち溢れ、自分が優れていると思っていた翔も、流石にこの時は自分を見失った。
一人称まで「俺」から「僕」に変わり、言葉遣いまで丁寧になった。そんな翔を見て、両親はかなり心配したようで、一度精神科に連れて行かれたこともある。
一度は諦めかけた小説家。そんな翔が諦めずに努力してこれているのには訳があった。
『あなたは失敗してなんかない…。ただ、失敗する方法を見つけただけ』
これは翔の大好きな小説家の言葉…。
彼女の本に、言葉に、一体何度救われてきたことか。数えてはきりがない。
彼女の名前は植村 葉月。
翔が小説家を目指すきっかけになった人物。
彼女の作る作品は、翔を何度も勇気付けた。だから今度は自分が誰かを勇気付ける番だと、勝手に決心して日々精進している。
翔は部屋に入ると、男の一人暮らしとは思えないほど片付いた部屋の明かりをつけた。
翔はカバンを和室に放ると、畳んである布団を広げ、着替えもしないまま飛び込んだ。
身体が布団に沈みこんでいく感覚が、疲労したからだをほぐして行く。
「ふぅ…」
小さなため息とともに、1日の記憶が蘇る。
遊びすぎたな、と反省しつつ重くなるまぶたに逆らえず、翔はゆっくりと眠りに落ちていこうとしていた。
ピリリリリ………。
甲高い着信音が鼓膜を叩く。タイミングの悪い着信に苛立ちを募らせつつも、翔はカバンの中から出したスマートフォンのスクリーンに目をやる。
「亮介……?」
横井 亮介と表示されていた。
横井とは高校からの親友で、学部も同じでほぼ毎日一緒にいたのだ………半年前までは。
「もしもし…?」
『やっと出たよ!何回電話したと思ってんだよ…』
通知ボタンを押すなり、彼の怒声が飛んだ。
「悪りぃ…気がつかなかった。」
電話の向こうで女性の声が聞こえた。
「亮介、夏希と一緒にいるの?」
彼には、山岸 夏希という名前の彼女がいる。横井と翔が毎日会えなくなった原因はこれだ。彼女は翔が唯一気軽に話せる女性だった。
翔は女子と話すのが苦手だ。彼女はもちろん、女子の友達も夏希しかいない。
『おう!とまあ、それは置いといてだな』
彼が珍しくかしこまったので、翔も少し身構える。
「なんだよいきなり…」
『明日の9時半…駅前のスタバな!お前にあって欲しい女の子……いや、女の人がいる』
彼が言い直したところに少し引っかかったが、問題なのはそんなことではない。
「え…ちょっと、なに勝手に決めてるの?」
翔は電話の向こうで、横井が鼻で笑ったのに気がついた。
『小説好きで、しかも夏希よりも美人………』
そこまで言ったところで、女性の大声とともに彼の悲鳴が聞こえ、応答が途絶えたのを翔は見送って携帯を置いた。
「夏希より…美人?それに小説好き?」
ぼんやりと薄らいでいた意識の中で、横井の言っていたワードを反復してみる。
「マジ?」
思わず笑いがこぼれてしまい、大急ぎで風呂場に向かおうとする翔。ふと、その時。
「あ…そうだ」
翔は思い出したように鞄の中に手を入れる。
「あった!」
翔が鞄から取り出したのは、昨日出たばかりの植村 葉月の新刊。帰りの電車の中で、良いところまで読んでしまい、続きが気になっていたのをすっかり忘れていた。
「少しなら…平気だよね!」
翔は自分に言い聞かせるようにして、本を持って風呂場に向かった。
*
翔は、目が覚めると目覚ましを抱きしめて寝ている自分の姿を認識した。
「ヤバイ!!」
慌てて時計の表示を見ると、九時半を過ぎている。
慌てて鞄に財布と携帯やら、最低限の物を入れて家を飛び出した。駅までは歩いて十分ほど。走れば五分もしないで作る。
女の子は待たせてはダメだと、横井が言っていたことを今になって思い出す。
結局、昨日は風呂で小説を読み耽っていて気がつくと三時だったのだ。
翔は道中、その女性に会ったらなんと言い訳したら良いのかということばかり考えていた。
やっとの思いで駅前のスタバに着くと、時刻はすでに九時四十五分。
翔は息を切らしていて、まだ呼吸が整わないまま小走りで店内に入っていく。
中に入ると、涼しい空気が翔の身体を包み込む。そこで初めて、自分の背中が汗ばんでいるのに気づく。
中を見渡すと、奥の席に横井と山岸が座っているのが見えた。
「亮介、あの女性は?」
横井はいつもに増してにやけた顔をしていて、
「おいおい翔、俺らへの詫びより赤羽さんのことかよ!?」
と、翔をからかう。
「赤羽さんって言うのか…その人」
あれ、言ってなかったっけと横井は無責任なことを言う。そして立ち上がって言った。
「あとは頼んだ!俺は今から夏希とデートだからさ!」
翔は慌てる。先程にも増して汗をかいて、上着を脱ぐ。
「え、一緒にいてくれないの!?」
二人は翔に背を向けて、赤羽さんも遅れるらしいから待っていろと残して店を後にした。
翔は、小さくなっていく二人の背中を見送り仕方なく、レジでアイスコーヒーを注文して待つことにした。
十分ほど待っただろうか。
翔が、小説の続きを読みながら彼女を待っていると、後ろから声がかかった。
「早坂君…だよね?」
顔を上げると、そこには月明かりに咲き出た夜の花のように美しい女性が立っていた。
「待たせてごめんなさい。想像以上に道が混んでいて」
翔は想像以上の美人の登場に、その場の状況を飲み込めずにいた。そんな翔の視線に気がついたのか、彼女は目をそらしてしまった。
とりあえず何か話さなければと、座ってくださいと声をかけた。
「あ、あの…僕、早坂 翔って言います。よろしくお願いします」
大人っぽい雰囲気で、同い年とは思えないほどに美しい女性だった。翔は、横井が電話で彼女のことを“女の子”から“女の人”といい直した理由に納得がいった。
初めてのデート(?)で、初めての自己紹介に、彼女が返してくれた答えは…。
「はい、知ってますけど」
お、おぉ…予想以上にクールな人だな。
それでも翔はめげない。中学の時に孤立してから、粘り強さだけなら誰にも負けない自信があった。
「あの…ここではなんですから、外のお店とか見て回りませんか?」
駅の近くには、デパートや映画館などが充実しており、デートスポットとしても有名だ。
このチャンスを逃してたまるか。
彼女の返答は…。
「ごめんなさい。午後から会議があるので、その準備があります」
おぉ…クールだ。でもこの人ならどんな性格でも憎めないなと翔は思った。実際のところはかなりメンタルに応えていた。
「それはそれは、お時間を割いていただいてありがとうございます」
翔は精一杯の笑顔で言った。
「それ……」
ふと彼女は、テーブルの上にあった小説に目を留めた。
「知ってるんですか!?植村葉月先生の新刊です」
彼女は翔の勢いに驚いたようだったが、冷静に応えてみせた。
「存じ上げておりますよ。あまり面白くないですよね…」
翔は彼女の言葉に同情出来なかった。
「そんなことないです」
翔が声のトーンが下がった。
「え?」
翔の声に彼女は動揺を隠せないようだった。
「僕は…彼女の小説に何度助けられたか」
翔は鞄に小説を入れながら、赤羽を連れて店の外へ出た。
「彼女のおかげで、僕は小説家を目指すことを諦めずに入られています!だから、彼女のことをバカにするのは絶対に許しませんから」
と、そこまで言ったところで翔は自分のしでかした事の重大さに気づく。
「あっ、いや、ごめんなさい!いきなり説教なんて…。僕、植村先生のファンだったからつい」
翔が頭を下げながら、彼女の顔色を伺うと彼女は微笑んで俯いていた。
怒ってない…のかな?
「本当にすいませんでした」
彼女は小さな声で呟いた。
「あの、ほんの少しだけ時間がありますから私とお店を見て回りたいなら、付き合います」
少々上から目線の彼女に、普通の男のなら突っ掛かるのだろうが翔は女の子と話せるだけ幸せだったのだ。
「いいんですか!?でも会議の準備は大丈夫ですか?」
彼女は翔の腕を掴んで勢い良く歩き出す。
「もしかしたら、会議は明日だったかもしれません。だから大丈夫です」
「か、確認しなくて大丈夫ですか?」
鈍い翔は、まだ気づかない。文句なしの激ニブ男子である。
「子供は余計な心配はしなくていいんです」
子供?それにさっき会社の会議って言ってたな。もしかして…
「赤羽さん、年いくつですか?」
彼女はピタリと止まって振り返ると、口を尖らせて翔を見つめた。
なんだか愛らしいその表情に、翔はまた見惚れてしまう。
「27ですけど何か?」
「うぇ!?27歳なんですか!?」
もっと老けて見えるんですか、と彼女はさらに口を尖らせた。
翔は慌てて、弁解する。
「いや!すごく綺麗な人だからもっと若いのかと思ってました」
赤羽は顔を赤らめてうつむくと、口をつぐんで恥ずかしそうに肩をすくめた。
「どうしました?寒いですか?」
だが、そんな彼女の仕草にも生粋の“激ニブ男子”は気づかない。
「いえ、平気です」
彼女は何事もなかったように翔に接する。
翔は彼女に優しく声をかけた。
「行きましょうか」