冷酷上司の甘いささやき
「死ぬもん! 死ぬもん! 死んでこのアパートに生えてる草木に生まれ変わる!」

「うるせぇ。いい加減にしろ。とりあえず部屋入るぞ」

課長はそう言うと、女性の腕を引っ張って、女性といっしょに部屋の中へと入っていった。
部屋の玄関の戸を閉める前に、私の方を見て、おそらく「ごめん」という言葉代わりに軽く右手を挙げてくれた。


あの女性、この間課長の頬を叩いて、課長は『フラれた』と言っていたけど……あの様子だと、女性の方が課長のことを忘れられないというか、諦めきれないというか、詳しい事情まではわからないけど、きっとそんな感じかな……。


……って、今はそれより。

「超修羅場じゃないですか~」

阿部さんが、今しがた課長たちが入っていった玄関の戸を見つめながら、ぽつりとそう言った。

なんとなく、阿部さんの口元は緩んでいた。


「今見たことは、誰にも言っちゃダメだよ」

念のためそう言うと、阿部さんは「え、ダメですか?」と答えた。


「ダ、ダメだよ!」

危ない危ない。口止めしておかなかったら、誰かに話していたかもしれない。阿部さんには、仕事のことだけじゃなくて、こういう常識的なことまで教育していかないといけないんだろうか……。


でも、あまり偉そうなことは言えなかった。
その後、私の部屋で二時間ほど阿部さんと過ごしたけど、阿部さんに、

「私、教育係が戸田さんでよかった」、「同期の仲のいい子の指導係はすごく怖い女性らしい」、
「戸田さんがやさしくてよかった」、
さらには「社会人になったら、仲のいい女の先輩のおうちにこうしておじゃまするのが理想だった」などと話され……私は、あれだけ決意したにもかかわらず、結局、阿部さんが帰るまでの二時間の間に、本題を切り出すことができなかった……。
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