私の彼、後ろの彼。
しかし、そのざわめきも一瞬のうちに消え去り、その場に相応しい静けさが戻った。
「桜の花びらが私たちの門出を祝うかのように、学校への道のりを綺麗なピンク色の絨毯へと変えてくれました。今日、この良き日に、私たち783名は新しいステージに立ちました」
新田真という彼の声は、低いのに、どこか優しくて落ち着く、心の奥がなんだか温かくなる、穏やかな声だった。
彼の口から生み出される言葉は繊細で、でも破壊力があり、美しく感じた。
いつも聞いている声にとてもよく似ていた。
彼の言葉が心地よく、目をつむっていたら数分前の彼のように眠ってしまいそうになった。
「…年4月8日。新入生代表、1年4組、新田真」
彼が会場中を見渡し一礼すると、はち切れんばかりの拍手が鳴り響いた。
大丈夫かと心配していた我が子が立派に育ち、あんなに素晴らしい挨拶をする時がくるとは、という雰囲気だった。
彼はステージを降壇し、席に戻ってきた。
「俺、新田真。よろしく」
席に着いたとたん私の方を向き右手を差し出した彼は、黒縁メガネをかけ、優しい顔をしていた。
「長浜璃子です。よろしくお願いします」
さすがに知らない男子に右手を出して、いそいそと握手ができるほど私には勇気がなかった。
それを感じ取ってくれたのか、しばらく差し出されていた彼の右手はいつの間にか制服のポケットの中に収まっていた。
それから式は順調に進み、教頭先生の挨拶で入学式という名前だけが初々しい式は終わった。
結局、彼は自分の挨拶が終わり、席に戻ってきてからものの数秒でまた眠りについていた。
式が終わったことを告げるため肩をとんとんと叩くと、今にも閉じそうな重たい瞼で私を見て、また右手を出した。
私の気持ちは変わらず、握手などするつもりはまだなかった。
だが、私の気持ちは簡単に折れることとなった。
「体が重くて立てない。起こして」
この人は一体何を言っているのだと私は困ってしまった。
もしかしたらこれは寝ぼけているのではないか、寝言ではないか、私をからかっているのではないか。
「無理です。自分で立ってください」
私は一度断った。
「いいから、早く」
未だに差し出された右手は私の方へ伸びていて、回りの生徒も、一体何だとこちらを見ていた。
「何をしているの!早く立ちなさい!」
私たちのことを見ていた先生が小さな声で言った。
「ほら、璃子。早くして」
「もう、なんでこうなるの」
私は仕方なく彼の右手を取り、彼が立ち上がるのを手助けした。
彼はまだ眠いのか、私のブレザーの裾を掴んでいた。
小さな子どものように。
前が詰まって少し立ち止まると、私にぶつかった。
「璃子、眠い」
後ろから彼の声が聞こえてきた。
今日は本当に最悪な入学式になってしまった。
肩を落としてホールを後にする私の姿を見て、クスクスという小さな笑い声が聞こえたような気がした。